999,3本目?——澪

 息が荒いのが自分でもわかる。眼前に広がった『花言葉辞典』が嫌でも現状を伝えてくれている。今度は汗が垂れる前に辞典を閉じた。このまま即刻、向日葵を助けに向かっても良いのだが、改善していかないと何度も同じことを繰り返してしまうだけだ。 


 繰り返す。そう、あまりにも理不尽に、死に引き寄せられるようにして向日葵は死んでしまう。絶対に。澪が何を試みようと、結果は変わらなかった。時間がループしている時点で常識の範疇には収まらないのかもしれないが、明らかに違和感があるのだ。向日葵先輩だけが毎回違う動きをしていることもそうだが、あの包丁が決定的だった。


 エアコンの冷気が背中を撫でて、蒸発する汗の気化熱で体が震える。


 ホームレスの男が持っていたものと、二つくりの友人が持っていた包丁は全く同じだった。たまたま同じ製品だった可能性もあるが、共通点に誰かしらの意志が働いているような気がする。つまり誰かが包丁を渡して、殺人を仄めかしたような……。だが、それなら、屋上から落ちたり、心臓発作を起こしたり、頭を偶然打ったりしたことの説明がつかない。


 そこで澪ははっと息を飲んだ。ある一つの可能性行き当たったのだ。死に引き寄せられたのではなく、死に歩みよったのではないだろうか。ロジックとしては筋が通っているような気がするが、理由、動機、が全くわからなかった。


 わからなくても、本人に聞いてみればわかる話だ。仮設から間違っていても、それはそれで、また彼女が死なないように全力を尽くすだけだ。


テニスコートに澪は向日葵の姿を求めたが、どこにもいなかった。現在時刻は17:20分。部活が終わる時間まで残り二十分しかない。ここには姿を見せないと考えて良いだろう。


「もしかして、夜中君?」


 澪が顔をあげると、二つくくりの向日葵の友人が立っていた。笑顔で包丁を握っていた姿がフラッシュバックして、一瞬後ずさってしまった。


「? どうしたの、そんなに怖がらなくても大丈夫。私はヒマみたいに怖くないから。というか、ヒマとどういう関係よ?」


 丸っこい目を細くしながら、澪に一歩近づいた。向日葵が怖いという印象を持たれていることが意外だった。親しい友人間でしかわからないこともあるのかもしれない。


「ど、どんな関係でもないですけど」

「う〜ん。ヒマに『テニスコートに夜中君が来たら、3-4の教室に来るように言っといて』ってお願いされたんだけど」

「え、そんなことあります?」

「私もそう思うんだけど、本当に言われたよ」


 眉を寄せて向日葵と澪の関係を訝しんでいるようだ。


 テニスコートに来ることも、自分が探されていることも知っているとなれば、向日葵もループしているということになるのだろうか。ちょうど、澪も聞きたいことがあるタイミングであったし。


 疑問はいくつか生まれるが、意中の人である向日葵に呼び出されたとあって、澪の内心は穏やかではなかった。


 三年の教室は校舎、西館の五階にある。特に用事がなければ一年が訪れることのない場所だ。階段を登っている最中に、一年生を不審に思ったのか、視線が飛んでくる。


 明かりが消え、西日の差す教室の窓際に向日葵はいた。


 物憂げに外を眺める姿はいつもの、溌溂とした雰囲気を全く感じさせない。深窓の令嬢という言葉が似合う姿だった。


 高校三年の夏だし、教室で勉強をしているひとがいてもおかしくはないはずだが、向日葵が一人いるだけだった。


「その、大空先輩。僕に用事ですか?」

「よ、よ、よ、用事といえば用事かな!」


 先ほどまでの雰囲気と打って変わって、向日葵は言葉を詰まらせつつ、顔を上気させて応えた。


「大丈夫ですか?」

「死にはしない……ふう、大丈夫、大丈夫」


 向日葵が言うと冗談に聞こえない。


「私に聞きたいことがあるんじゃないのかと思ってね。もう色々勘付かれてそうだし」


 その通りといえばその通りなのだが、澪の思っていること、つまりループに関してのことだが、もし見当違いであったらどんな顔をされるのだろうか。どんな顔をされても、その話題を出したらループしてしまうので、それなりに言葉を濁すつもりではいるが。


「じゃあ、核心には触れずに、単刀直入に伺います」


 向日葵は椅子から立ち上がって、腰に手を当てて、仁王立ちをする。


「うん、なんでも聞いて良いよ、後輩」


 この元気の良さと、素直なところが彼女の人気の理由なのだろう。だからこそ、しっかり答えてくれるはずだ。


「大空先輩、自殺しようとしてませんか?」


 向日葵は目を点にしている。

 見当はずれな質問だっただろうか。


「……うん、しようとしてるよ。最初の方は違ったけどね」


 雲に太陽が隠れ、向日葵の顔に当たっていた夕日が消えて、暗くなった。


 向日葵が何を想定していたかは澪にはわからない。しかし、澪が考えていた、『向日葵は死んでしまうのではなく、自ら命を絶っている』という予想は正しかった。


 特定の人が何度も、全く異なる理由で殺されてしまうことは明らかに不自然だが、その当人に死ぬ意志があったのならそうとも限らない。


「大空先輩が自殺なんて似合いませんよ。辛いことがあるなら、僕が話を聞きます」

「心配してくれてるんだ。ありがとう。でも私が死のうとしている理由は、その逆だから」

「逆って……?」


 今までに見たことのない極上の笑みを向日葵は見せる。まさにヒマワリのような笑みを。


「私は幸せだから死ぬんだよ。嬉しいことがあるから死ぬの。だから、心配しなくても大丈夫、ごめんね」


 澪は自分の頭からサッと血が抜けていくように感じた。理解不能の四文字が頭をよぎる。


「ど、どういうことですか、意味がわかりませんよ」

「じゃあ、これでわかってくれる?」


 向日葵はスポーツバッグから、花束を取り出して、澪に手渡した。


 向日葵は可愛らしい、羨望を集めているその顔を赤くして俯いた。


「やっぱりダメかな?」


 ヒマワリの花が三本。


 澪は散々見た『花言葉辞典』を思い返した。


 花言葉は『愛の告白』。


「これって、『愛の告白』……」


 向日葵の顔はもはや赤くなりすぎて火を吹きそうだ。


 雷で脳天を打たれたような衝撃が体を駆け巡った。


 あの多くの男子が憧れる大空向日葵が、澪のことを好きだと、愛の告白をしたのだ。澪も陰ながら好意を寄せていたのだが、まさか両思いになれるとは一度も思わなかった。それに、この状況の中でこんなことがあり得るとは思わなかった。


「でも、ダメだよね。夜中君は、一人でいる方が好きだもんね」


 確かに一人でいる時間は好きだが、友達が欲しいと思っているし、恋人も欲しいと思っている。向日葵が欲しいと思っている。


「僕は、」

「無理。やっぱり返事は聞きたくないよ」


 向日葵は突然、窓の方へ駆け、外へ飛び出してしまった。この教室は五階だ。落下しては命はない。幾度も自殺を重ねるうちにためらいがなくなっていったのだろう。


 咄嗟に手を伸ばして、向日葵のことを掴もうとするが、もう届く距離にはいない。目を瞑ると、記憶の逆流がはじまった。


 手を伸ばし、ヒマワリを手渡され、話、教室に入り、テニスコートへ行って、図書室を出る。


 なんとなく、幸せだから死ぬ、の意味がわかったような気がした。


 視界が白に染まる。

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