1,7,999本目——澪
夜中澪は冷房の効いた図書室の一角で額の汗を拭った。窓は閉じているのに、吹奏楽部の演奏や、何かしらの運動部の掛け声が聞こえてきていた。
滴った汗が、開いている『花言葉辞典』の58ページにシミを作った。急いでそれをぬぐい、深呼吸をする。
ヒマワリの花は本数によって花言葉が異なるらしかった。どれも愛に関する言葉で、本数が多くなるほど、その意味は強くなる。
このページを見るのは何回目だろうか。数えられるほどに鮮明に記憶が残っているが思い出したくはない。
大空向日葵は夜中の前で何度も死んだ。トラックに轢かれたり、心臓発作を起こしたりと、死因は様々であったが、何度も死んだ。何も死んで蘇り、死んで蘇りを繰り返したわけではなく、彼女の死を起点として、同じ日が繰り返されている。そして必ず、この図書館に、この本を開いた時点に戻ってくる。要はアニメや映画でよくあるようなタイムループのなかに夜中澪はいる。主人公よろしく、向日葵を救おうと、何度も足掻いたが芳しい結果を得ることができなかった。どうしても7/17 18:30付近の時刻で向日葵は死んでしまうのだ。直近では、屋上で風に煽られて、落下死してしまった。
そんな中でもわかったことがいくつかあった。
記憶が引き継がれているのは自分だけ。向日葵にループの話をすると、強制ループ。それゆえに、彼女に記憶が引き継がれているのかは分からない。毎回違う行動を見せるのは向日葵だけ。自分の名前は知られている。
わかっている条件はこれだけだ。これだけだが、これだけでどうにかするしかない。
ここまで向日葵を澪が救おうとするのには理由がある。
今年高校に入学したものの、澪には友達ができなかった。理由はいくつか思い当たるが、それにしてもありえないぐらいに友達ができなかった。自分が密かに書いていた小説を落としてしまってからだった気がする。あの小説は、いつの間にか自分の机の上に置かれていたので、誰かが読んだのだろう。向日葵が澪の名前を知っているのもその影響だと思っている。孤独を好む主人公が近づいてくる者を殺してまわる話だ。とても著者に好感を得られるようなものではない。その内容から澪に関する噂がいつの間にか膾炙してしまったのだろうが、これまで関わっていた人も澪から離れていった。そんな中で唯一澪に微笑みかけてくれたのが大空向日葵だった。ただそれだけなのだが、それだけでも孤独な男子高校生が好意を持つには十分だった。そんな大切な人が目の前で命を落とすとわかっていて、助けないわけにはいかないだろう。というか、記憶を自分以外引き継いでいないのならば、澪以外に助けられる人はいない。
心に鞭を打って、澪は立ち上がった。やることは決まっている。『花言葉辞典』を書架に戻して、テニスコートに向かった。大抵の場合、向日葵は、部活動をしている。そこからの行動が分岐することが多いのだ。体育館の裏から階段を登ると、そこには人工芝のテニスコートがある。小気味よい、打球音が聞こえる。大体の女子部員がTシャツにミニスカートかショートパンツといった装いをしている。その中で一際際立っているのが向日葵だ。大きな声を出して、部員たちの雰囲気を盛り上げている。噂に聞くと、全国級の実力をも持ち合わせているらしい。これで、成績も優秀で、誰からも好かれる人気者だというのだから、非の打ち所がない。ショートボブに、少し日焼けをした整った顔立ち、スタイルは男子で嫌いだと言う人はいないだろう。無論女子からも羨まれている姿はよく見る。隣で練習している男子テニス部の部員がチラチラと、向日葵を盗み見ている。盗み見ているのは澪も同じだが、友達もいないし、問題はないと割り切っている。澪が彼女を好きであるのは間違いがないが、日陰者が関われるとも思ってはいない。
じっと見つめていた澪に気がついたのか、向日葵はパッと振り向いて、笑顔を見せてきた。心臓の鼓動が早まるのを自覚した。きっと誰にでも見せる笑みなのだろう。だが、これを絶やすわけにはいかない。
腕時計を確認すると17:30を示していた。部活を終える時間だ。
部員は球を拾い、コートにブラシをかけると、挨拶をして部室に戻っていった。制服に着替え終わると、しばらく雑談をしながらわらわらとスポーツバッグを抱えて、帰宅し始めるはずだ。
部室の外に出た向日葵は全員に別れの挨拶をして他二人の部員と校門へと歩き始めた。
澪は一瞬身を隠してその後を追った。前回はこの後すぐに友人と別れて、向日葵は屋上に向かったのだ。理由は聞く暇もなかったのでわからなかったが。どうやら今回は友人と共に帰宅するみたいだ。
二車線道路の歩道を通って、電車通学の向日葵は駅へ向かう。その間に、自動車事故に巻き込まれたことは二度あった。気づかれない程度に接近して、いつでも彼女を庇える位置につく。突然、澪が喋りかけると心臓発作で倒れてしまうことはわかっているので、この距離が限界だ。
「ヒマはさ~遅刻しても許されるからいいよね」
髪を二つくくりにしている女が頬を膨らませながら向日葵に言った。
「まあね~、日ごろの行いかなっ?」
「ヒマが言うと冗談に聞こえない!」
ポニーテールの友人が大きく声を張りながら、向日葵の背中を叩くと、三人は声をあげて笑った。至って平和で、光の世界だ。今から死ぬ人間の反応とは思えない。
ずっと気を張っていたが、自動車が突っ込んでくる気配はない。時刻は18:28。駅にまで辿り着いてしまった。時刻的にはそろそろだ。気をつけるべきこととしては人と、電車、だろう。突然人が襲ってくるとも限らない。
「ユイ、そろそろお願いできる?」
向日葵がポニーテールの友人に突然、何かはわからないがお願いをした。
「お願いって何よ?」
もう一人の友人は向日葵の言いたいことがわからないのか完全に困惑している。三人組の中で自分以外の二人だけが情報を共有している状況は、ちょっとした怖さがあるのだろう。向日葵の周囲でそういった、やり取りはないとは思っているが。
悪ふざけだろうと澪は聞くのをやめて、周囲の人間を警戒することにした。
スーツを着た中年男性、女子大生風の女、浮浪者。浮浪者に向日葵を殺されたことが一度あった。注意を配って観察するが、そのときに浮浪者が握っていた柄の赤い包丁は見えない。
「……! 何やってんの?」
まず澪の目に入ったのは、胸に刃物を突き立てられて、倒れる向日葵の姿だった、ユイと呼ばれたポニーテールの友人が目を見開いて、突き刺さった刃物を見ている。
二つくくりの友人は何とも言えない笑顔で刃物を握っている。形状からして包丁で、柄は赤色だ。
どういうことだ。向日葵は殺人をユイに『お願い』したのだろうか。だが、包丁を握っているのは二つくくりの友人だ。どこか向日葵をうらやんでいる節があったし、『お願い』のやり取りで沸点を超えたのだろうか。
すでにループを見越した原因を探っている自分に澪は嫌気をさして頭を振った。この瞬間にも、想像を絶する痛みが向日葵に襲い掛かっているに違いない。
「大空先輩!」
「よ……夜中、君」
駆け寄ろうと足を前に出すが、自分の身体の動きがスローモーションになっているのが分かる。無駄だと分かっているが、それに抗おうとするが、記憶の濁流は止められなかった。
こんな状況でまだ彼女は笑顔のままだ。なぜこんな人が、何度も何度も何度も死ななくてはならないんだ。
向日葵に駆け寄り、向日葵が包丁で刺され、周囲を警戒し、学校を出発し、部活を覗き見て、図書室を出発し、
意識が白に染まった。
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