第18話 ビンタ

 あれから広季は授業に遅れてしまった。さすがにチャイムが鳴ってから図書館を出れば間に合わない。そのため軽く教員に注意された。さすがに高校生にもなって怒鳴られることはない。


「ねえ、森本君ちょっと話したいことがあるんだけど」


 昼休みに入ると、光が広季の教室に姿を現す。なぜか緊張した面持ちではなかった。自信に満ちたような顔を形成する。まるで自惚れるかのように


「笠井さんどういうつもり?」


 隣の席に座る仁美が怪訝な目で睨みを利かす。普段穏やかな仁美が堂々と苛立ちを露にする。浮気して広季を傷つけたことが幼馴染として許せないのだろう。


「わかった」


 広季はあっさり答える。表情はなく真顔である。


 正直、光の顔を視認した直後、言葉では言い表せないほどの怒りを覚えた。身体の体温が急に上がるほどだった。広季は光を全然許せていなかった。時がある程度経過したのにも関わらず。


 一方、光は口元をへの字に曲げる。


「大丈夫だから」


 広季は仁美を安心させるように優しい調子で言葉を掛ける。依然として身体も心も焼けるほど熱いのだが耐えるしかない。


「本当に?」


 仁美は上目遣いで不安そうに見つめる。その瞳は透明な水分で潤いわずかに揺れる。


「じゃあ決まりだね」


 光は満足げに顎を振る。教室を出ろと言いたいのだろうか。光は教室の戸へ足を運ぶ。


「じゃあ行ってくるね」


 広季は仁美にそれだけ残すなり、イスから腰を上げた。その瞬間、硬い感触がお尻から消える。広季の背中はどんどん仁美から遠ざかる。仁美はただ心配そうに広季の背中を見つめていた。


 広季は光にただ付いていく。すると極度の人気ない場所に移動する。周囲には誰もおらず、近所には自動販売機しかない。自動販売機は鮮やかなブルーライトを放つ。


 光は立ち止まり振り返る。彼女と広季の目が合う。広季は特にドキッとせず同じように歩を止める。


「単刀直入だけど。森本君、私達やり直さない?」


 光は薄く笑みを浮かべながら大胆な提案をする。茶色の瞳は広季を覗き込むように見つめる。まるで狙った獲物を捕まえるかのように。


「え!?」


 広季は予想外の展開に素っ頓狂な声を漏らす。それと同時になんて図々しい奴だと光を酷評する。普通、浮気した人間が復縁を求めない。いや求めてはいけない。正直、心の中で呆れてしまう。


「浮気した私が言うのもおかしいけど。でも気づいたの。私には森本君しかいないから。もう一切浮気なんかしないから!」


 光は真剣な表情で訴えかける。本気で復縁を熱望している様子だった。それは表情や口調から容易に想像できた。


『そりゃそうだろ。それになんで復縁なんて求めてきたんだよ』


 広季は胸中で悪態をつく。残念ながら光の言葉は広季に一切響かなかった。もう完全に広季の心に光はいなかった。未練はまったく残っていなかった。


「ちょっと待って!」


 何者かが大きな声を上げ割って入る。広季と光の視線が1箇所に集まる。広季の後ろに舞の姿があった。


「お、お姉ちゃん。どうしたの?」


 光は作り笑いを浮かべ、この場を乗り切ろうとする。光の顔に緊張感が走る。


 舞はうんともすんとも言わず、無表情でずんずん光に歩み寄る。舞に纏わる雰囲気は普段のおっとりしたものではない。


「お姉ちゃん?」


 光は目を泳がせながらぼそっと呟く。しかし舞からの反応は皆無。


 舞は広季の隣を無言で通り過ぎる。その瞬間、広季の身体に悪寒が走る。


 舞はようやく光の前に立つ。光は圧に負け、わずかに後ずさる。


「…」


 舞と光は黙って対峙する。両者ともに口を開かない。だが光は明らかにビクビクする。


 一瞬の出来事だった。舞は何も言わずに光の左頬を力強くビンタする。


 パチンッと弾けるような甲高い音が生まれる。


「え…いたい…」


 ビンタされた光の頬は赤く染まった。舞の手の形が明瞭に刻み込まれていた。

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