約束 09-2


「正直、真魚さんが好きなタイプの作品をあんまり知らないから知りたいというのはあるよね。何が見たい?」

「ずるい聞き方ですね……」


 ふふ、とマグカップを口に運びながら、真魚は苦笑する。

 好きとか、嫌いとか。

 そういうものは、誰にだってある。

 真魚はいつも、千夜が選んだ千夜の見るものを、一緒に見ている。

 そこに少女の“好き”も“嫌い”も介在していない。彼の好きなものを好きに思うか嫌いに思うか、彼の嫌いなものを好きと思うか嫌いに思うか。


「正直いいですか?」

「どうぞ」

「あんまり映画見ないので、好きとか嫌いとか、あんまりよくわからないんですよね」

「あー。確かに、映画って若干空気独特だもんね」

「そうそう。そうなんですよ。アプリで漫画とかはよく見るんですけど……」


 漫画や小説、映画。

 それらはすべて、口当たりが異なる。

 恋愛、という大きな括りで見たとしても、漫画でそれを見るのと小説でそれを見るのと映画でそれを見るのとでは、まったく評価が異なる。

 恋愛小説を好きな人が、恋愛映画を好きとは限らない。

 それはその作品を作っている国・レーベルなどの違いもあるし、映画という短い尺と長編化しやすい漫画とでは、物語構成が異なるというところでもある。


「じゃあなおさら、一回いろんなの見てみるほうがいいね」

「……そう、なるんですかね?」

「ならないかもしれない」


 真魚は「んー」と少し悩んで。


「じゃあ、その『バレンタインデー』で。恋愛ドラマとか映画はあんまり見ないんですけど、恋愛主体の漫画とかは好きなんですよね」

「あいあい」


 そして、二人は映画を見始めた。

 いつも通り、メッセージを送り合いながら。


 画面の向こうの、色々な愛や恋の形。

 浮気や初恋。偶然と必然。友情と愛情。


 そんな、様々な人の、バレンタインデーの過ごし方。結婚への考え方。愛の伝え方。愛しているということ。


 そしてエンドロールを迎えて、千夜はマグカップに残ったホットチョコレートを、名残惜しみつつ飲み干した。


「どうだった?」

「普通に面白かったですよ。浮気の決着とかスカッとする仕上がりでしたし」

「あそこよかったなぁ。手を叩いちゃった」

「ね」


 ただまぁ、と少女は一つ付け加える。


「なんというか……我が家も若干家庭内が……。みたいなところはあるので、ちょっと考えちゃったところはありますね」

「あぁ……感情移入しちゃうやつ……」

「ですねぇ。まぁ、それはともかくとして、あの飛行機に乗ってた女性の──」



 なんでもないような顔で家の話をして、なんでもないように映画の話に戻る。



「──という感じで。あの二人の周辺は終始穏やか〜でよかったですよね」

「あのカップルな。安心して見れた」

「バランスよかったですよねー」

「うむ……」


 映画が終わって、会話が止まって、夜の静寂しじまが場を満たす。

 もう時刻は18時に差し掛かろうとしていた。

 夜。

 季節によって昼夜の境界は異なるが、この時期、この時間は、どうしたって夜である。


 長時間一緒に過ごしていれば、自然と、沈黙というものは場に訪れる。


 そして彼は、割と、そういう、止まったような、ぬるいような、無音ではない静寂が好きだった。

 そして少女は、その呼吸に合わせることを、好ましく思うようになっていた。


 ふと、脳がじんとして、浮くような感覚。

 体の感覚を、失うような感覚。

 冬のまどろみの中では、そういうような感覚を、抱く。


「……ホットチョコ、もう少し飲みますか?」

「あるの?」


 空になったマグカップに、わびしく口をつける彼に、ぽつりと少女が言葉を投げた。


「いいえ、はい。まぁ材料は多めに用意しておいたので」

「じゃあ、お願いしようかな」

「ちょっと待ってくださいね」


 衣擦れの音。

 フローリングが、きしむ音。

 他人の発する、音。


 彼は、自分以外の人間が、女性が、立っているのを見ていた。

 ミルクを温める。まな板の上で、チョコレートを刻む。ミルクに、チョコレートを溶かしていく。

 そんな少女の動作を、彼は見ていた。


「……あの、どうかしましたか?」

「いやぁ」


 キッチンに立つ少女は、エプロンをしていた。この家に置いておかれている、少女の私物になったもの。

 訝しげな表情をした真魚の頬は、うっすら色づいていた。唇も、同じく少し色づいていて。

 それらすべてが相まって、どうしようもなく──……。



「そろそろ、子どもっぽいことは、やめたほうがいいのかなってさ」



 正しき選択を。





  ✿





「あのときはスルーしましたけど、あれどういう意味ですか?」

「あれって?」

「子どもっぽいのやめるとかどうとか……」

「あぁ……」


 冬の空の下を、二人で歩いていた。

 足の向く先は、海。

 ホットチョコレートを飲み終えたあと、「海が見たいです」と少女が言って、彼が了承をして、今に至っていて。

 夜の散歩を、していた。


「感覚的な話なんだけど。このままでもいいのかもしれないけど、そろそろひずみが大きくなりすぎるかな……みたいな。わかるかな」

「いえ全然わかんないです。なんの話ですか?」

「まぁそりゃわかんないよね。一応あれだ、将来の話?」

「明日はバレンタインデーですね」

「ついでに一か月と一日後にはホワイトデーが来るね」

「ありがとうございます」

「まだ何もしてないのに感謝されてしまった」

「よろしくお願いします」

「……何か考えておくよ」

「やった」


 彼らが歩き始めて幾分か経っていて、視界の端には、真っ黒な海があった。

 海沿いの道。さざ波の音が、かすかに耳へ届く。

 それはさながら、自然の生み出す円舞曲。

 たんたんたんっ、と真魚はステップを踏むように、浮かれた様子で先行する。

 オフホワイトのコートに身を包んだ少女は、黒に溢れた夜の中で、より浮き立っていて。

 彼はそんな少女を、目を細めて見ていた。

 

「ほっわいとで~。……ふふ。楽しみですね」

「ハードルがあがっている気がしてならない」

「私は謙虚なのでー」


 パッと振り向いて、後ろ足に。対面する形で歩く。

 そしてすぐに、くるんとターンして、横に並ぶ。


「なんでしょうね。アクセサリーとか、高級そうなお菓子とか? コスメとか? そういうのはいいです。普通に、普通でいいです。普通に、お返しくれたら、それが」


 一番嬉しい、と。


「また逆に難しそうな……。はい。まぁ、楽しみにしておいてくださいと言っておく」

「約束ですよ」

「はいはい。約束ね」


 言葉を交わしながら、彼らは歩く。


「なんだか夜歩いてると、初めて会ったときのこと思い出しません?」

「初めて……?」

「えっあっ……。なんでもないです……」

「いや、初めて会ったときのことは覚えてるけど……。歩いてるってシチュエーションだと、二回目会ったときかなって思っただけ」

「あぁ……なるほど……」

「今だから言うけど割と真面目に最初は幻覚か幽霊だと思ってた」

「ひどすぎません?!」

「いやだって……ねぇ?」


 あの日は月がよく見えた。

 満月だった。

 静かな夜だった。

 月へゆくための道が、海に映っていた。

 光を纏う人魚がいた。

 美しかった。

 綺麗だった。

 人魚は人魚でなく、人間の女の子だった。


「ずぶ濡れで髪の毛とかさ……真魚さん髪長いから。まぁホラーだったよ。真剣に幽霊じゃないかと思った」

「それは……まぁ……」


 否定できない、と真魚は歯噛みする。

 千夜は当時のことを思い返して、秘めやかに笑う。

 昨日のことのように思い出せる──、というのはこういうことを言うのだろう、と。

 ただ、少女が幽霊のように見えたのは、別に髪とかだけの問題ではなくて。そう、雰囲気が──、と。


「? どうかしました?」


 じっ、と彼は少女のことを見て、少女はそんな彼に怪訝な顔をする。


「いや──」


 千夜は、なんでもないよ、と言おうとして。

 その刹那、彼が言葉をつむぐ最中に、少女は顔を引きつらせて、彼の体の陰に、身を隠すように動いた。


 ぽかん、として。


 一拍おくれて千夜は、向かい側から歩いてくる、真魚が顔を引きつらせた要因に、目を向けた。

 そこには40代~50代くらいの女性がいた。真魚の反応からして、知り合いかつ会いたくなかったのだろうか、と彼は思った。

 とはいえ、あからさまに身をひるがえすと目を引くことは否めない。

 

 実際、向かいの女性も少し気になったようで、少し遠くから、怪訝な顔でこちらを見つめて──。



「……真魚ちゃん?」

「うぇ……。お母さん……」



 何してるの我が娘、というの目。

 うわ~、というの苦し気な表情。

 ついでにそんな親子を眺める


 この三人が、海沿いの道で、出会った。

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