約束 09-1



〈 2月13日 〉



 チョコレートの日。彼らの暮らすこの国が、一年で最も、甘い香りに包まれる日。

 バレンタインデー。Valentine's Day。


 ……その前日の、13日。


 バレンタインデーこと2月14日は、月曜日である。つまり13日、今日は日曜日である。

 そんな日、真魚は、ひとの家のキッチンにいた。

 時刻は、約15時。

 いつも通り──と言っていいほど習慣化してきた映像鑑賞。そのお供になる飲み物を生成した真魚は、マグカップにそれを注ぎ、居間へと運んだ。


「今日は何見るんですか?」

「そっちは? 何か見たいのとか」

「んー。なんでもいいです」

「言うと思った」


 どれにしようかな、と千夜は動画配信サービスを開いて、候補を選んでいた。

 コト、と真魚は、いつも通りマグカップを置く。

 相変わらずマイリストやおすすめに出てくる作品はホラーばかりで、彼の趣味嗜好が、傍からでもありありと感じ取れる。


「どうぞ」

「ありがと」


 マグカップが二つ。

 中には、いつも通りの、ミルクブラウンの温かな液体。


 映画を物色する彼が、ながら作業のように、画面を注視しながら、ごく自然な動きでマグカップを口に運ぶ。運ぼうとして、何かを疑問に感じたのか、くんくんと香りを嗅ぐ。そして、ズ、と一口。

 その様を、真魚はドキドキしつつ、穴が開きそうなほど、じ~~っと見ていた。

 

「あ」


 一口嚥下した彼が、つぶやくように、言葉をもらした。

 何かに気付いたような、けれど確信を持てないような。

 もう一口、ゆっくりと味わって……千夜は、パッと、顔を真魚のほうに向ける。


 その表情には光があって、ほころんでいて──、つまりはそう、誰が見ても嬉しそうだった。

 

「これもしかして、チョコレート?」

「はい」

「あー……そう。そうか、バレンタイン……?」

「はい。……の、前日ですけど、明日は月曜日ですし……今日のほうが渡しやすいかなって思って」

「なるほどなるほど。不意打ちだったな。すごい嬉しい。ありがとう」


 チョコレートと、ココアは似ている。

 そもそも一体何が違うのか。何も見ずに、チョコレートとココアの違いを答えろと言われて、解答できるひとは一体どれくらいいるだろうか。

 きっとそう多くはないはずで、実際チョコレートとココアは、色も見た目も香りも味わいも、やはり似ている。



 だからもしかしたら、気付いてもらえないかも──と。



 気付いてもらえないなら、それはそれで、まぁ仕方ないかな、と。

 面と向かってラッピングをしたチョコレートを渡す勇気はとてもなくて、だからいつもと変わらない形で、誰よりも早く渡せたらいいなと思っていた。

 そんな乙女心が叶って、真魚は、やんわりと微笑む。


「ホットチョコはじめて飲んだ気がする……」

「そうなんですか」

「うむ……。ココアと似てるけど、やっぱなんか違うね。おいしい。ホットチョコのほうが……まろやか……? かな」

「語彙力が試されますね」

「まぁ、おいしいということだけわかってればいい気もする。いいね。甘くなくしたんだ?」

「そっちのほうが好きかなって思ったので。ビターなホットチョコレートです」

「いいね」


 千夜は普段、ココアを無糖で飲む。

 子どもの好きなココアという飲み物から、砂糖を抜いて、少し大人向けに。

 それを真魚も知っていたから、いつも彼が飲んでいるのと同じように、ビターな仕上がりに。

 ビターとは言っても、ミルクはたくさん入っているから、口当たりはまろやかで。

 そういうところが、やっぱり少し、子ども向け。

 大人も子どもも、みんなが美味しく飲める。ホットココアとホットチョコ。それを彼は愛していて、それを好む彼のことを、少女は好ましく思っていた。


「バレンタインとかあんまり意識してなかったな。そうか、もうそんな時期か」

「ですです」


 真魚は座椅子に腰をあずけて、少し恥ずかしげに縮こまって。

 少女は、「ふー。ふー」と冷ましつつ、自分用のホットチョコレートを飲む。

 うん。……甘くなくて、おいしい。

 少女は小さく微笑んで、ちらりと、彼のほうを盗み見るように視線をおくる。


「千夜さんって、職場でチョコレートとかもらわないんですか?」

「なくはないよ。同僚とかがくれたり、上司ちゃんが差し入れにくれたりすることもあるし」

「義理ですか?」

「義理義理。よその会社は知らないけど、うちの会社で社内恋愛してるの聞いたこと……なくもないけど……ぼくの周りではまぁないかな」

「へ~」

「そっちは? 社会人より、そういうのは学生のほうがホットでしょ」

「まぁ……明日は大なり小なり色めき立つとは思いますけど。私は礼ちゃんに友チョコあげるくらいですかね。……男の子にあげる予定は、特に」

「じゃあ男でもらえるの、ぼくくらいか。光栄だな」

「……まぁ、はい」


 露骨な特別扱い。

 少し勇気を出して、あなただけですよ、と伝えて。

 それで微笑んでもらえるのは、嬉しいような、ちょっと余裕ぶってるのが寂しいような。


「学校どう?」

「話題の振り方が驚くほど雑ですね。まぁ楽しいですよ、受験がなければ」

「受験は強敵だからな……」

「実際のところ、社会人の千夜さんからして、勉強……例えば数学とかって大事なんですか?」

「え、うん。うん……? いや……うん……」

「……?」

「学生に『なくても困らないとは思う』とはとても言いづらくて困ってしまった」

「つまり、なくても困らないんですね?」

「なんだろうな……。選択肢を広げるってのは大事だとは思うんだよ。いま高二の終わりだと思うけど、来年から高校三年生。高三になってから、例えば科学者になりたい! ってなったとしたら、やっぱりそれまでに蓄積がないとしんどいだろうし……みたいな」

「あぁはい。それは、そうですね」

「まぁ基本的な学力はあったほうが絶対いいけどさ。数学とか特にそうで、電卓とか叩けばいいとは言っても、正しい計算式を導けないとその時点で詰みだし」

「あぁ~……」

「いや、実際多いんだよ。そういう──……。と、危ない。仕事の話になってしまいそうになった」

「別に話してくれてもいいですけど。というか、ちょっと聞きたいです」

「そう? まぁ社会人の話面と向かって聞くことなんてあんまりないし、有りっちゃ有りなのかな」

「ですね」


 2月13日。2月の中旬。

 彼らがはじめて会ったのは、7月の末で。

 出会ってから、半年以上が経っていた。

 人が仲良くなるために必要なのは、時間と時間濃度、それから人としての相性。

 仮に一目惚れ同士だったとしても、それは“仲が良い”というには語弊があるであろうし、付き合いだけ長くとも嫌いな相手というのは当然存在している。ゆえに、時間を共有し、お互いを尊重し合う程度の好意があってはじめて、仲が良いと言える。


 年を越す前であったら、プライベートの話などしなかっただろう。

 ただの初対面同士からのスタートであったならともかく、彼らの出会いの形は、少しばかり特殊だった。だから関係性の積み上げ方も、少しズレていて。

 実際仕事の話や学校の話、お互いのプライベートに突っ込んだ会話というのはほとんどしたことがなく……それはつまり、ようやく彼らが、ごく普通に仲が良いと言える段階までに至っているということだった。


「ところで、何も見ないんですか?」

「あーうん。どうしよっかな。ホットチョコに魅了されて忘れてた」

「……」

「せっかくだし、バレンタインっぽいの見ようか。まんま『バレンタインデー』ってタイトルのやつとかあるよ。どう?」

「安直すぎません?」

「正直、真魚さんが好きなタイプの作品をあんまり知らないから知りたいというのはあるよね。何が見たい?」

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