久しぶり、それとおやすみ 04-1

〈11月4日 〉





 ──今夜泊めていただけませんか?





 千夜のスマートフォンに、そのメッセージが届いたのは午後10時くらいの出来事だった。

 食事を済ませて、入浴もすませて、適当にだらだらと過ごすか……というときに、連絡がきた。


 はじめて少女と出会ったのは7月25日、次に出会ったのは8月9日、そして最後が8月28日。

 そして今日が、11月4日。

 連絡先を交換してから、早二か月が経っていた。

 あの頃はなんだかんだと、一か月程度で三回の邂逅を果たしていたので、記憶に新しい状態が維持されていた。

 けれど、二か月。

 たった二か月と見るか、二か月も、とみるかは人によるだろうが、やはり二か月もまったく音沙汰がないと、仕事や遊び、日常のさまざまなことで記憶は塗り替えられていくものだ。


 眩しい太陽も光を弱め、木々は秋色を帯びている。

 それくらいの月日が経っていたから、やはり思うところが少なからずあった。

 少しの驚きと、納得と、心配と。

 彼はメッセージを認識するや否や、特に事情を詳しく聞くこともなく、了承の意を返信した。













「お久しぶりです。……すいません、夜分遅くに」

「いや、いいよ別に。あがってあがって」

「明日平日だし、お仕事ありますよね? 本当に大丈夫ですか?」

「まぁ……否定はしないけど、実際そこまで困らないっていうのも本当だよ。徹夜で一緒にゲームしよう──みたいなこと言われるとすごく困り始めるけど、徹夜でゲームとかする?」

「しません」

「なら問題ない」


 時刻は23時。

 早ければ眠りにつく人もいるだろう、という時間帯。

 深夜、と区分する人間もいる時間帯。


 そして今日は木曜日。明日は祝日でもなんでもなく、普通に仕事や学校のある平日だった。


 暗い外、薄暗い廊下を通って、明るい部屋に少女を通す。

 部屋の明かりで、少女の姿がよく見えた。暗がりではよくわからなかった部分が、よく見えた。

 長袖の白いシャツワンピース。夜にとけこむ、さらさらとした綺麗な黒髪。同じくきれいな黒い瞳。


 それから、


「……どうした、それ」

「あ、やっぱりわかりますか。まぁ、ですよね。気付かれないかなと思ってたんですけど、無理がありましたかね……」

「殴られた?」

「……」

「相変わらず嘘を吐くのは下手らしい」

「まぁその……はい。そういうわけで、友だちに泊めて、ともちょっと言いづらくて……。変にどこか泊まろうにも、その、怪我してる高校生が……その……」

「うん。なんとなくわかるし、いいよ。いつまででもいていいよ」


 なるほど、と千夜は納得をした。

 確かに友達には、あまり知られたくないことなのかもな、と。

 それに、基本的には問題ないだろうが、妙な話になって事態がややこしくなるかも──、という危惧をすることも、わからないではない。


「着替えとかは?」

「あります。今日は持ってきました」

「お風呂は?」

「……借りてもいいですか。すいません」

「はいはい」


 聞くべきことを手短に聞いて、彼は心の中でため息を吐く。

 女の子の顔に、傷。

 ごく普通の精神をしていて、これを気に病まない男はいないだろう。

 暗がりだと気付かなかった程度、少し腫れている程度、軽傷と言っていい程度だが、それでも女の子の顔が傷ついているのは、それだけで少しクるものがある。

 加えて、当人は、なんでもないことのように微笑んでいる。


 少女の心は、傷ついていないわけではない。


 けれど痛みというものは、我慢ができてしまうものだ。

 許容限界値は人によってさまざまであろうが、少女の自然にも思える微笑みからは、少女の許容限界値が高い位置にあることが窺える。

 そして、そんな少女から、赤の他人と言っても過言ではない彼まで連絡がきたという事実が、また痛ましい。

 そこしか、もう頼れなかったのだと。

 その事実が何より、彼には心苦しかった。


「……とりあえず、いま追い炊きしはじめたけど……。そうだな、またココアでも飲む?」

「……ええと。はい。いただきます。ありがとうございます」


 キッチンに向かおうとして、はた、と彼は足を止める。


「…………いや待て。違うな。ちょっとぼくも混乱しているらしい。風呂とか飲み物とかより先に、手当てが先か」

「大したことないですよ。ちょっと腫れてるだけですし」

「えぇ……いや、だめ。だめだよ。血は?」

「えーと……口の中が少し切れてますかね。でも、もう止まってるので……」

「そう? そうか……」


 彼は、口元に手を添えて考え込む。

 しかし、混乱しているときというのはやはり、考えがまともに定まらないもので、今回も例にもれなかった。


「とりあえずいったんソファ座って、ゆっくりしてて」

「はい」


 彼は手早く氷枕を引っ張り出し、トタパタと動いて、枕にタオルを巻いて、少女のもとへ。

 ソファにちょこんと、借りてきた猫のように縮こまって座っている少女に、「はい」と渡す。


「……ありがとうございます」

「気楽に──って言っても難しいだろうけど、まぁ気楽にしてくれると嬉しいな」


 ちべた……と。

 そんなことを呟く少女を横目に、彼は迷いを継続していた。

 何を迷っているのかと言われれば、傷ついた少女への対応方法である。

 心というのは繊細で、触れ方を間違えれば、簡単に傷が入るものだから。

 特に、すでに傷心だというなら、傷口に塩を塗る行為へと簡単に発展してしまうだろう。


「…………」

「…………」


 少し考えて、彼は、過度に触れないことを選択した。

 触れれば傷つくなら、触れないのが一番いい。

 傷には薬を塗るものだが、心への特効薬なんてものは簡単に用意ができない。

 なら、変につつかず、安静に、穏やかに。

 大袈裟に拒否するでもなく、歓迎するでもなく、ただ普通に過ごそう、と。

 きっとそれが一番だろうと、彼は思った。


 ピー。


 そんなことをしていると、電子音が鳴った。

 どうやら湯船の準備が整ったらしい。


「着替えは持ってきたって言ってたっけ? バスタオルは?」

「……すいません、忘れてました……」

「じゃあちょっと待って」


 彼はまた、トタパタ、とバスタオルを持ってきて、少女へと。


「ぼくは割と、何もなくても深夜まで……二時くらいまでは起きてるタイプだし、別に時間は気にしなくていいから」

「……ええと、はい」

「深夜徘徊の実績は伊達じゃない。嘘じゃないよ」

「……じゃあ、ちょっとだけ、長いこと入っててもいいですか? 髪の毛乾かすとかも含めると、たぶん、一時間半くらいはかかっちゃうかなって……」

「ああうん。余裕」

「……ありがとうございます」


 彼が微笑むと、少女は、目を逸らして逃げるようにバスルームへと足を運ぶ。

 千夜は後ろ姿を見送って、ため息を一つ、ひっそりとこぼす。



「──……念のため、日用品買い足そうかな」



 次のさらに次があるかわからないが、少女用のバスタオルや毛布などは、置いていてもいいかもしれない。

 もし次のさらに次が訪れなくても、それ自体は平和の証とも言えるし、それに自分用の予備としての役割は果たせるので、悪くはないアイデアのように思えた。

 今日のところの寝具をどうするかは悩みものではあったが、ソファは簡易ベッドとして使用可能ではあるし、暖房と加湿器さえつけていれば、夏用の掛け布団でいいと思える。

 千夜のベッドに寝てもらい、彼がソファで眠るという選択もあるにはあるが、あの少女はそれを是とする性格でもないだろう。


「まぁ、どうとでもなるか」


 でも過度な干渉はしたくないとはいえ、もう少し負荷をかけない形でどうにかできないか──、などとやっぱり考えてしまったりして。

 ただやっぱり、人の心に触れるのは難しい。


 直接の言葉を投げるには、心の距離が遠すぎる。

 なら、間接的になら、そういう触れ方なら、刺激も少なくていいんじゃないか──、と。


 最善ではないけれど、次善ではあるかもしれない。

 千夜は、机の上に置いてあるメモ用紙と、ペンに、目を落とす。

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