久しぶり、それとおやすみ 04-2





 そして、1時間と少ししたころ。深夜、1時。

 ドライヤーの音が止んで、少女が居間へと入ってきた。


「──……」


 彼は、居間の大きなモニターで、アニメ映画を見ていた。

 少女は、ぴた、とドアを開けたところで静止して……。

 そろりそろり、と。

 物音を立てないように、という足取りで、動く。

 そんな少女を、彼は床に直座りしながら、一瞥する。


「や。思ったより早かったね」

「そう、ですか?」


 モニターの映像は動いていて、音声は流れ続けている。

 彼はそれに頓着することなく、モニターではなく少女を見て、話していた。


「髪乾かすのとか、まぁ色々。もっと長くかかるかと思ってた……。ていうか、ちゃんと乾いてる?」

「……まぁ……はい。ある程度は」

「……」


 じ、と彼は少女の髪を見つめる。

 お風呂上がりの女の子。

 心なしか、目元が腫れている気がする。気がするだけかもしれなかった。

 それから、ほかほかと、肌がしっとりしている……のは良いとして。

 少女の、夜に濡れたような髪は──……まだずいぶん、水気を含んでいるようにも見えた。

 髪が長いと、それ相応に乾かす時間も必要だろう。けれど、人の家で、深夜で、やっぱり時間は気になるだろう。だから時間を使うに使えなくて──と、そういう結果の話だった。


「ぼくは見ての通り映画見てるし、別に時間とか気にしなくていいよ。……あぁ、一回見たことあるやつ適当に流してるだけだから、音も気にしなくていい。半分くらいは見てないし」

「……ありがとうございます」


 そう言って、少女はまた、洗面所へ。

 やがてドライヤーの音が、また聞こえ始めた。


「……」


 彼はひっそり、吐息を一つ。

 映画を流し始めたのは、良かったのか、悪かったのか。

 彼が就寝の準備を始めていれば、気を遣わせるだろう。けれど映画を見ていれば、それを邪魔しないようにと、それはそれで気を遣わせるだろう。

 結局どうなるにせよ気を遣わせるのであれば、何が正解なのか……と。

 彼は、そんなことを思っていた。



 そして、幾ばくかして。



「すいません。終わりました……」

「ん。何か飲む? 水とか」

「ええと……大丈夫です」

「そ。まぁのど乾いたら、冷蔵庫にあるものは好きに飲んでもらっていいし、コップも何使ってもいいし」

「ありがとうございます」


 少女は、少し目を泳がせたあと、そろりそろり、とソファにすとんと座った。床に直座りしている彼からは、幾分か離れた位置。


「……それ、『秒速5センチメートル』、ですか?」

「ん。知ってる?」

「はい。えーと、前に放送してるのを見たことがあって」

「なるほどね?」

「……好きなんですか?」

「うん」


 少女は静かに、納得したように頷いた。

 秒速5センチメートル。

 その物語の形は、結末は。

 あぁ確かに、前に聞いた話を踏まえると、彼が好きそうな雰囲気ではあった。


「最初の台詞が好きなんだよね。……なんだっけ。さっき見たのにもう忘れたな。桜の花びらの落ちる速度が秒速5センチとか言ってるあたり」

「……『ねえ、秒速5センチなんだって。桜の花の落ちるスピード。秒速5センチメートル』……ってところですか?」

「……よく覚えてるね」

「まぁ、一回見たので。……その、記憶力はいいほうなんです」

「へー」


 彼は少女のほうを、感心したように見つめる。

 そして少女は、バツが悪そうに、身をすくめた。


「まぁでもその、いま言ってくれた台詞が好きでさ。その台詞に映画の魅力の半分は詰まってるなーって思う」

「……?」


 もちろん異論は認める、と彼は言いつつ、疑問符を浮かべる少女に向かって、付け加えるように言葉を続ける。


「桜の花びらの落ちるスピードって、秒速5センチじゃないんだってさ」

「え、そうなんですか?」

「そうそう。だからこの映画好きなんだよね。本当は秒速5センチじゃないらしい」

「へー……」

「そう、秒速5センチっていうのは、本当のことじゃなくて。けど本人がそう思ってるならそれが本当なんだろうなって思えたりする。言わなかったこととか、言えなかったこととか。未練があるとかないとか。そういう……なんていうのかな。すれ違いとか? ちょっと言葉に迷うけど、人の未完成な形がきれいな映画というか。で、なんできれいなのかなって思うと、それはやっぱり、桜の花の落ちる速度が、秒速5センチだからなのかなって」

「……小池さんって」

「……はい」


 彼の言葉を聞いて、少女は、少し、驚いた。

 少女は基本的に、一度目にしたもののことは、覚えている。経験したことを忘れることはない。だから、今話している映画の内容についても、ごくごく普通に記憶している。

 基本的には、男の未練の話だと。未来を向くに向けない男の、長い時間をかけた失恋の話。

 少女自身、別に、あのような話が苦手なわけではなかったが、煮え切らないような感情は抱いていたから。

 まるで、光が瞬くような。

 少女は、そんな気持ちで、息を吐いた。


「小池さんの選ぶ言葉って、なんだかやっぱり、変わってますよね」

「……はい」

「あ、えと、褒めてます。面白いなって意味です」

「え、ほんと?」

「はい」

「だいたいこういうこと言うと気持ち悪がられるから、新鮮なリアクションだ」

「まぁ……この映画が苦手ってひとの気持ちもわかるので……。大半のひとはそういう反応になるんでしょうね」

「そうだなぁ」

「私も、もうちょっとこう……手紙とかメール、頻繁に出せばいいのに、みたいなことを思った記憶があります」

「まぁ……出せなくなっていく気持ちもわかるんだけどね。出したくないというか、出したいけど躊躇われるみたいなのは誰でも思うところな気がする」

「それはそうなんですよね」


 少女は、ううん……と、唇に手を添えて、少し考える。

 遠方への引っ越し。物理的に離れ離れなった少年少女のつながりは、手紙という形でしかなくて。

 だけれど、顔も見えず、本音も書けないのであれば……徐々に心が離れてしまうのは仕方のないところもある。


「でも、もらうぶんには……もらうぶんには気にならない気はします。出すのは確かにまぁ、思うところがあるのはわかるんですけど」

「時間と距離が空くとどうしてもね」

「一般論としても、遠距離恋愛っていうのは難しいでしょうしね。それに、子ども同士ですし」

「まぁ大人同士なら、またちょっと違う話にはなるだろうけど」

「……ですね。……なんだか変な方向な話持ってっちゃって、すいません」

「いやいいよ。はじめから中身のある話はしてないし」

「なら、いいんですけど」


 モニターにはなおも映像が流れ、音が響いている。

 しかし、もともと彼は間をつなぐために流し始めたものだったから、そこに対して、あまり注視はしていなかった。

 ぼぅ、と。

 眠気などで少しふわついた頭と、少し浮いたような視界。

 ねむたいな、という感情。

 そういったことを思っているのは、彼も少女も同じで……だからぼんやりと、滑るように空間を走る音と映像を、漠然と捉えるだけになっていた。


「……」

「……」


 気まずい、沈黙。

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