名前、呼び方、好きなもの 03-1



〈 8月28日 〉



 蝉の生態について、詳しく知っている者はどれほどいるだろうか。

 『なんとなく』知っている。そういった曖昧な認識をしているひとがほとんどなのではないだろうか。

 もちろんそれは悪いことでは決してない。虫、という括りにしても、一種につき驚くほど様々な違いがあり、かつ虫の種類は膨大だ。

 その中の一つである蝉への知識など、多くの人は持たない。


 けれどそれでも、蝉の存在を知らないひとはいない。


 ミンミン。シャンシャン。カナカナ。ジーン。ツクツクホーシ。

 夏。蝉たちは大きな声で訴えている。だから誰しもが、その存在を知らないということはない。

 蝉に対する偏った視方が生まれるのも、その存在主張の強さにあるのだろう。大きな声、多数の抜け殻、そして同じく多数の死骸。

 だから『蝉は地上に出てから、1週間しか生きられない』という俗説が信じられる。けれど事実はそうではない。


 それは結局、思い込みの問題。視たいものを見た結果の話だ。


 ミンミン。

 蝉、蝉が鳴いている。

 昼だった。蝉が鳴くのは、基本的に明るい時間。


 夏は夜──などというが、夏が“夏らしい”のは、やはりどうしたって、昼である。

 それを示すかのように、蝉の合唱が大きく響いている。

 そんな、太陽を見上げれば目が焼焦げてしまいそうな、そんな夏の日のこと。

 深夜徘徊は趣味の彼は、太陽が高くのぼっている時間帯に、外出をしていた。


「……あづい」


 思わず、苦悶の声が口から漏れる。

 夏は暑い。それはもうどうしたって変えられない事実である。

 彼は滴り落ちる汗をぬぐいながら、休める場所に向かっていた。


 カランカラン。


 喫茶店の扉をぐぐると、入店を示すベルが鳴る。

 昼前であることもあって、店内はなかなかに盛況だった。座れる場所があるかとぐるりと店内を見渡すが、一見して空席はないように思われた。

 待つことがそこまで苦であるわけではないが、やはり少し気落ちしてしまう。


 ──ただいま店内満席となっておりまして。恐れ入りますが、そちらの用紙に名前を記入しお待ちください。


 そして店員の声にうなずき、ペンをとろうとしたそのとき、


「あ」

「……あ」


 見知った少女の顔を、店内に見つけた。











 四人掛けのテーブルについた彼は、対面に座る少女を認め、少し不思議な気持ちになっていた。

 これで少女と会うのは3回目になるが、そのどれもが偶然で、その偶然が約1か月の範囲で起こっている。

 しかし取り立てて驚くことではなく、もしかしたら顔を認識するかしていないかの問題で、今までも同じくらいはすれ違っていたのかも──と思ったりして、もしそうだとしたら、妙に縁があるな、とやはり不思議な気持ちになる。


「なんかごめんな。相席」

「いえ、別に。……それに、まぁ、店内混んできたし居座るのやめようかなー帰ろうかなーって思ってたところだったんです。相席してもらえて、私もちょっとありがたいなーという打算もですね」

「あぁ……まぁ四人掛けはね。この時間帯ちょっと罪悪感あるよね」

「そういうことです」


 ちゅー、とストローで飲み物を吸う少女は、なんでもないような表情をしていた。

 それを見て彼は、『どうやら本当に気にしてないらしい』と思い、肩の力を抜いた。そしてパラ、とメニューをめくり、中身に目を滑らせる。


「今日はどうしたんですか?」

「あー、映画見ようと思って」

「そこのモールの映画館ですか? いいですね。何見るんですか?」


 彼は今日見る予定の映画のタイトルを口にする。

 少女はピンとこなかったらしく、はてな、と首をかしげる。


「……?」

「ホラー映画」

「なるほど。おじさん怖いの平気なひとですか?」

「いや、無理。苦手。かなり無理だな。夜お風呂入るときとか怯えてしまうくらいには苦手」

「……え、なんで見るんですか?」

「真夏に摂取するホラー映画からしか摂れない栄養素というものが世の中にあって──あ、すいません。ありがとうございます」


 お冷を持ってきてくれた店員さんに礼を言いつつ、彼は注文をすませる。


「アイスココアと、えー……ミックスサンドください。サイズ普通、無糖で」


 かしこまりましたー、と遠ざかる店員さんを見送りつつ、少女に向き直る。


「…………おじさん、ココア好きですね」

「まぁね。でも君もそれココアじゃないのか? 大概君も好きだよね」

「や。これは……メニューにココアがあったので……」

「それは好きとは違うのか」

「……好きなのかもしれません」

「はい」


 しどろもどろとして目を泳がせる様を見て、彼は表情には出さず、少し驚いていた。

 おそらくだが、様子からして、あの2晩の影響が大なり小なりあって、ココアを注文したのだろう、と。

 好きとまでは言わずとも、印象に残ってはいたのだろう、と。


「と、ところで無糖なんですね」

「ん? うん。ぼくはだいたい無糖だな」

「……へー。おいしいんですか?」

「無糖だと甘くなくておいしい。加糖だと甘くておいしい」

「なんか、大人って感じしますね」

「そうかなぁ……」


 すごい、と微笑む少女に、「砂糖の有無で大人かどうか決まるわけじゃないけど……」とは思いつつ、彼はほんの少し照れ臭い思いをしていた。

 どんな理由であれ、褒められて悪い気をする人間はあまりいない。それも邪気がない笑みと共に言われたなら、なおさらだった。


「ところで、君は今日どうしたの?」

「あぁ、私もモールに用がありまして。……友達とお買い物する予定があって、いまはその待ち合わせですね」

「あ、そうなんだ。ほんとに相席よかったの?」

「それは別に……──」


 ちらりと視線を流し、少女は開いていた口を閉ざす。

 トレイを持った店員さんが少し離れた位置にいて、少女につられてよく見ると、トレイの上にはサンドイッチとココアが乗っている……気もする。

 断定するほど近くなく、良く見えない。

 けれど少女の目は確かだったようで、何秒かした後、店員さんがやってきてアイスココアとサンドイッチを置いて行った。

 そして、店員さんが遠ざかっていくのを認めて、少女はまた口を開く。


「待ち合わせしてるんですけど。なんでか連絡つかなくて。別にここで待ち合わせしてたわけとかじゃないので、席は別に……って感じです」

「なるほどね」

「私のことは気にせず、食べてください」

「ありがとう。じゃあ……いただきます」

「はいどうぞ」


 両手を合わせて食事をはじめる彼を見ながら、少女はまたちゅー、とココアを飲んでいた。

 彼が入店する前からいた少女のココアは、もう底をつきかけていた。

 少女は追加注文しようかどうか悩みつつ、新しい飲み物を頼んだ場合もう少し店内にいることになり、彼が退店するころにはまだ席にいることになる──など、頭の中でぼんやり予定を整理していた。

 すると、少女のスマートフォンに通知が一つ。


「あ」

「ん?」

「あぁいえ……噂をすればなんとやらと言いますか……友達から連絡がきたんですよ」

「へぇ」

「親に捕まったとかどうとかで、来れないそうです。困りましたね」

「それは困ったね」

「ね」


 サンドイッチをぺろりと一つ平らげ、彼は一息吐く。

 ココアを一口。やっぱり、ココアはおいしいと思うのであった。


「おじさんは食べたらすぐ出る感じですか?」

「んー。……そうだな、あと一時間半くらい後ので予約してるから……まぁある程度はのんびりしようかなとは思ってたけど」

「そっか。そうですか。……じゃあ私も少し一緒にいさせてもらってもいいですか?」

「うん」


 ぴんぽん、と少女は流れで呼び出し鈴を押す。

 そうして店員さんがやった局面で、少女は迷うそぶりを見せる。彼のほうを一瞥した後に、店員さんに言葉を投げる。


「ミックスサンドひとつ。それからアイスココア一つ、サイズは普通で、無糖でお願いします」


 女性の店員さんは、オーダーを聞きつつ、彼のほうをちらりと見る。

 第三者の目から見た彼らは、兄妹のようにも見える。けれどそうではないのだろう、と店員は思っていた。

 入店したときの様子。交わす言葉。距離感。

 その片鱗をつなぎ合わせると、少し見えてくるものがある。

 友達の妹、友達の兄。塾講師と生徒。

 そのどれかはわからないが、それに準ずるような関係なのだろう──、と店員は感じていて。いずれにせよ、「年上の男の人を意識している女の子が可愛い!」と非常ににこにこしていた。

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