セカンドコンタクト 02-3
「何してたと思います?」
少女も、普段より自分の口が軽いことに自覚があった。それがなぜなのかは、少女にも明確に解答をすることはできない。
だが、要因として挙げられるのは、彼が置き書き程度のものに『嬉しかった』なんて言ってくれる人だったということ。それから、近すぎず遠すぎない距離感がちょうどよかったのもあるだろう。平たく言えばどうでもいい存在だった。近い人に悩み相談はできない。遠い人にも当然悩み相談はできない。
遠い存在には、何を思われても傷つかない。だから何を話してもいい──なんて。
きっと、そういう理由で、少女は彼に対して口が滑らかになっていた。
「言わずに解答だけ教えてもらうのはだめな感じ?」
「だめです」
「そっかぁ」
「別に、何言ってもいいですよ」
少女はうっすら笑みを浮かべていた。
平常時なら、むしろ言及されたくはなかった話題。他人にも友人にも、触れてほしくはない地雷原。
だけどいまの少女の心は、どこか不思議な領域にあった。
頭の奥が鈍いような、冷めているような。けれど本当は、夏の熱に浮かされているだけなのかもしれなかった。
理由はなんであれ、少女はいま、目の前の変なおじさんが何を言うのかを少し楽しみにしていた。自分の話を聞いて、どんな顔をするのか少し、興味があった。
「え、ほんとに笑わない?」
「? はい」
「えー……」
少女は不思議そうに首をかしげる。
何をどうやっても、笑うような展開になる話題ではないという自覚があった。
何故なら、少女が海に身を投げていたのは、“身投げ”──つまりは自殺が目的だったからだ。
泳ぎに行ったわけではなかったから、服は着たままだった。そして、いま生きているのは、純粋に苦しくて、怖くなってしまったから。惨めになってしまったから。
かなりデリケートな話題であるという自覚があったからこそ、何を言うのかある程度の予測を立てていたからこそ──、
「月に行きたいのかなって、思ってた」
バツの悪そうに言う彼の台詞が、少女にとっては意外なものでしかなかった。
少女は呆気にとられて、ぽかん、と口を開ける。
言葉を言葉としてとらえるために、少女は時間を要した。ツキ、月……月。
「月って、あの月ですか? 空にあるあの?」
「よーし、的外れなことはわかった。解答をたのむ」
「いやいやいやいやいや、だめです。もうちょっと詳しくお願いします」
「えぇ……? 詳しくって何。月に行きたいは月に行きたいでしょ。これ以上話すことは特にないんだけど……」
「いやいやいやいやいや、何かあるでしょう。わけがわからないんですけど」
「えー……」
彼は溶けそうなアイスを口に放り込み、飲むように嚥下する。
氷菓子のさっぱりとした味で口の中をうるおしながら、考える。
言葉を探している彼を見ながら、少女もしゃくしゃくとアイスを食べ進める。
二人の口の中は、
「……なんだろな。遠目ではあったけど、陸地に背を向けてただろう。海のほうをずっと見てた」
感じ入るものがあって、思い至る節があって、少女はわずかに声をもらす。
「月が海に映って、光の道みたいなのができてたんだよ」
未だ言葉は足りず、説明は説明としての体をなしてはいない。
けれど、伝わるものはあった。
彼が何を見て、何を感じて、どう思ったのか。
月に行きたい──……そう感じたその理由の一端を、自分の心と、少女は重ねて……理解した。
「……詩人ですね?」
「だから言いたくなかったんだ……」
「笑ってはないじゃないですか。いや、やっぱりおじさん、今まで私が出逢った人の中で、一番面白いですね」
「それはどうも」
少女は、自分のことを少し理解してもらえた気がして、嬉しそうに微笑んだ。
彼はやっぱり言わなきゃよかった、と渋い顔をして、そっぽを向く。
「まぁでも、ちょっと合ってるかもです。月がどうっていうか、泡になって、風になりたいみたいなことは思ったりしてましたね」
「詩人ですね」
「やめてください。セクハラですよ」
「勘弁してくれ。世の中の成人男性はセクハラという言葉にめっぽう弱い」
「セクハラ~」
「こいつ……!」
人と人が、心を縮める瞬間。
そのきっかけを明確に答えることができる人は、あまりいないだろう。よほど劇的なことでもなければ、人と人が心を縮めるのは、“なんとなく”であることが多い。
なんとなく同じ時間を過ごして、なんとなく話すようになって、いつの間にか仲を深めている。
人間関係というものは、往々にしてそういうものだ。
けれど、言語化できないだけで、小さなきっかけというものは絶対にある。
彼と少女にとっては、いま行っている、少しだけ踏み込んだこの会話が、それと等しい。
夏の夜。ソーダアイスをかじりながら交わした言葉が、彼ら二人が仲を深めるきっかけの一つだった。
彼らは、他愛のない会話をしばらく続けていた。
街灯に照らされた夜道。
月の無い夜。月の引力が、薄い夜。
彼は彼の家に、少女は彼にただ着いて行っていて──……それは、海から離れる道のりだった。どこか遠くに行ってしまいたいと思っていた少女の願いとは別方向の、道のりだった。
「ところでおじさんって、何してるひとなんですか? 明日月曜ですけど大丈夫なんですか?」
「……? あー、そうか。学生さんはいま夏休みなんだ。そうかそうか。そういえば8月ってそうだった気がする」
「ええと、はい。一応8月末くらいまでですね」
「まぁ夏休みのひとにはあんま関係ないんだろうけど、明日は月曜だけど祝日だから休みだよ。じゃなかったら流石に、こんな時間に外出歩いてない」
「おじさんの深夜徘徊日ってそんな感じに決まってるんですか?」
「徘徊日……。いやまぁうん。前会ったときもたぶんあれは土曜か金曜かだったとは思うけど」
「はー、そうなんですね」
二人分の足音がする。アスファルトを足裏でたたく音、擦る音。普段とは違う、二人分の足音。
ゆっくりと、彼らふたりのペースで、足が進んで行く。
その間もずっと話し続けていて、話題は二転三転、色々な方向に進んでいた。
「話し戻すけど、君、十六歳って言ってたっけ? 高一? 高二?」
「すごい勢いで戻りましたね。半月前まで戻りましたよ今」
「まぁまぁ」
「……高二です。なんなら最近17になりました」
「へぇ……なるほどね」
「8月5日なので……三日前? あー、四日前になるんですかね」
「えっそうなんだ。ほんとについ最近だ。誕生日おめでとう」
「……ありがとうございます。……しかし、今日ほんと暑いですね」
「ね」
少女は歩きながら手扇でぱたぱたと自分を煽ぐ。
誕生日を祝われるのがむずがゆいという、少女なりの精一杯の話題そらしであった。
彼は、それに気づかないふりをして、「暑いね」と相槌を打つ。
そうして街を歩いて行って、彼は、彼と少女は、彼の家まで着いたのだった。
「──というわけでぼくん家の前まで到達してしまいました」
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