出会いの日 01-2
「……綺麗だったな」
ぽつりとつぶやいて、波打ち際へ。
押し寄せる波を手で感じる。夏の暑さには心地いいぬるさ。
「……ぬるいなあ」
夜だからとて、特別海の水は冷たいわけではない。冷たいというほど水温は低くなく、熱いというほどでも当然なく、ぬるいという印象。
心地いい、温度だった。
そうして少しの間波と戯れて、彼はもともとの散歩の目的を達成した。
こうして、波打ち際まで来ることがもともとの予定だったのだ。
「もう少し時間をつぶしたほうがいいかな……。そろそろ大丈夫かな」
少女の後を追うような形でこの場を後にするのが嫌だった。ストーカーじみているようにも思えるし、それで不信感や不安を相手に与えることを思うと、できなかった。
けれどもう姿は見えないし、いいだろう、と彼は海辺を後にする。
彼は、濡れた手をハンカチで拭きながら「あの子、全身ずぶ濡れで大丈夫なのかな……」と、考えていた。
当然、大丈夫なわけがない。
彼がそれを知ったのは、彼が少し歩いた先の道端で、少女が座り込んだのを見つけたからだった。
普通に考えて、シャワーを浴びるなりすぐ着替えるなり迎えの車なりなんなり何がしかの考えがあるものだと思っていた。
けれどどうやらそうでもないらしかった。
「…………」
三角座りをして、顔を膝にうずめている。少女が居座るアスファルトは、滴る水で湿っていた。
一見すると、ただのホラーである。
彼も先ほどから一連の流れを見ていなければ、「呪い?!」と身構えていただろう。いや、一連の流れを見ていても、かなり呪いの世界に足を突っ込んだかのような感覚に陥っていた。
つまり、彼はいまだいぶ恐怖を感じていた。
「……あの」
「……」
隠れていた顔が見えた。年頃の、若い女の子のように見えた。
そして顔を見た瞬間に、彼の中からホラージャンルという可能性が消えた。
少女の顔に映っていたのは、恐怖、怯え、辛苦などに類する、マイナスの感情。
「もしかして、家に帰れない、とか?」
少しの逡巡。
そしてその後、小さな首肯。
「…………お金貸そうか。ホテルとか。深夜でも受け付けはしてるだろうし」
「……ええと、はい。お心遣いはありがたいんですが……遠慮しておきます。普通に、私なら大丈夫なので、放っておいていただければ」
会話が成立した! と彼は内心驚いていた。
「いやでも」
「──それに、こんな風体で行ったら……警察とか呼ばれそうで嫌なんですよね。いかにも訳ありって感じじゃないですか。それは、ちょっと」
「あぁ……そういうものなのかな……? まぁ確かに可能性は否定できないか……」
「……」
「…………じゃあ、うち来る?」
無言で見つめ合った後、こくり、と少女はうなずいた。
シャワーの水音。
うら若き少女が、一人暮らしの男の部屋へとやってきて、シャワーを浴びている。
彼に畜生じみたことをする気はさらさらないが、しかしどうにも落ち着かない。
もうしばらくすれば、深夜というより、早朝に近い時刻となる。
「ねむい……」
眠気はピークに達していたが、しかし状況ゆえに、ねむるにねむれない。
しかし逆に男が寝ていたほうが、少女にとってはリラックスできていいのかも……と考えたり、彼は彼で、そわそわとしていた。
彼の部屋は、一人暮らしには少しだけ広い、1LDKの部屋だった。
奥の寝室にはベッドとクローゼット。もう一つの部屋にはローテーブル、ソファ、テレビ、ノートパソコン、クッション、本棚。
ソファに座り、どうしようかと頭を抱えていると、ドライヤーの音が聞こえ始めた。
少女の長い髪を乾かすには時間が必要だろうと思われるので、面と向き合うのはもう少し先にはなる。
しばらくして、ドライヤーの音が止んだ。
ひょこり、とやや身を隠すような位置取りで、少女が姿をあらわす。
彼のスウェットをぶかぶかに着ていて、頬は上気したように赤く色づき、髪がしっとりと湿っている。
「あの、すいません。……お風呂、お借りしました。あとそれから着替えも。……ありがとうございます」
「うん。まぁ、服はいま洗濯してる。乾燥もそのあとにするから、まぁ、少しの間我慢してください」
きちんとした検証をしたことはないが、彼の部屋はそれなりに防音性能が高い。
環境音を気にするのが嫌だったとか、周りへの配慮を事細かにするのが面倒だったからとか、会社から補助金が出たとか、色々な理由はあってそれなりの部屋に住んでいるのだが、深夜中の深夜でも周りへの配慮をしなくてもよかった。
だから洗濯機もまわせるし、シャワーも使える。
だからきっと大丈夫だろう、と彼は苦笑しながら、少女に話しかける。
「ところで……ココア、珈琲、水、牛乳、オレンジジュース、野菜ジュース、緑茶。どれがいい?」
「えっ」
「五、四、三、二、一……」
「み、水でっ」
「じゃあ水で。適当に座ってて」
萎縮している少女を置いて、キッチンへ。
ミネラルウォーターを冷蔵庫から出すつもりで──、小さな手鍋にココアパウダーをいれていた。
頭で考えていることと、手の動きが異なってしまう。それが疲労によって引き起こされていた。
あ、間違えた……と思いつつ、それはそのままに、グラスを出して、ミネラルウォーターを注ぐ。
「はい、お水」
「ありがとうございます……」
テーブルに水を置き、彼はまたキッチンへと戻る。
少し遠めに、少女が彼の様子をうかがっている。
彼は落ち着いた声で、話す。
「間違えてココア出しちゃってさ。作ろうと思って」
薫り高いココア粉末を、鍋にいれて、ほんの少しミルクをいれて、ペースト状に。
さらにミルクを足して、希釈。少し火をかけて、加熱。溶けやすいようにして、また混ぜる。
ココアの芳醇な香りが、空間を満たしていた。
チョコレートと似通う、“芳醇”と呼ぶことがもっとも適した、ココアの香り。
普通は砂糖をいれるが、彼は無糖のミルクココアが好きだった。
「…………」
気付けば、少女の視線がこちらに向いている気がした。
少女のほうを振り向くと、びくっ、とあわてて視線をそらす。
かわいいところあるなぁ、と彼は微笑んで、無糖のミルクココアに砂糖を足して、かき混ぜる。最後に氷を足してアイスココアの出来上がり。
そして、新しいグラスを取り出して、先ほどとまったく同じ手順でアイスミルクココアを作った。けれど最後に砂糖は加えず、無糖で仕上げる。
少女のぶんにはストローもさして、二人ぶんが完成した。
「はいこれココア。ちょっと量が増えすぎちゃって、飲んでくれるとありがたい」
「……はい、いいえ。あの……ありがとうございます」
ちぅ、と少女はおそるおそるストローを含む。
ココアの力に彼は少し期待したが、少女の表情は変わらない。
「…………」
「…………あぁそうだ。歯ブラシいるよね。確かちょうどストック切らしてたんだよな。あとでコンビニで買ってくる。」
「え、あ。……ええと、はい。お気遣いなく。別に、大丈夫ですから」
「いや歯は磨かなきゃだめだよ」
「……はい、いいえ。そうですよね。口が汚い女とは嫌ですよね。……お願いします」
「? うん」
はぁ、と鉄を吐き出すように、少女は重たいため息をする。
「じゃ、行ってくる。他なんかほしいものある?」
「あ──」
少女は、目を泳がせ、たっぷり10秒ほど口をもにょもにょとさせた後、言った。
「あの……ゴムってありますか?」
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