家出娘のなつき度が上がった。通い妻に進化した。

夜桜さくら

出会いの日 01-1


 海の泡ぶくに憧れていた。

 この体を泡に変えて、空へと昇って、空気の娘になりたい。そう思わずにはいられなかった。

 ……だけど、海に濡れた服は重くて、浮かぶどころか沈んでしまいそう。


 ただ、それも、悪くない。

 波の音。月の明かり。海のゆりかご。

 ほどよくぬるい、水の温度。

 どこか落ち着く、夜の闇。


 どうしようもなく嫌なのは、どうしたって、このままじゃいられないということ。

 このまま、消えてしまえたらいいのに、と。

 そう願わずには、いられないこと。





  ✿





〈 7月25日 〉



 夜は、昏い。

 そんな当たり前は、文明の光によって覆されて久しい。

 赤黄青の信号ランプ、街灯、24時間営業のコンビニエンスストア、あるいは単純に電気をつけている一般家庭など。それらが、光となって暗闇を照らしている。


 夏の季節。

 夏だからこそ、夜という時間は特別になる。

 月がいくぶんか西に傾いた時間帯。多くの人が、眠りについている時間帯。夜が、深みを増している時間帯。

 この時間帯でも、街中を歩いて“昏い”という印象はあまり抱かない。


 だから彼は、海へ行く。


 この地域で一番夜が濃いのは海である──……彼はそう思っているからだった。

 墨汁で染めたのか、と言わんばかりの“黒い海”。

 まるで生き物であるかのようにうごめく暗闇の主。


 それを見るために、彼は海へ行く。

 まるでハイキングへ行くように足取りは軽かった。街路を抜けて、海沿いの大通りへ。

 それだけで、もう、海が見える。

 遠目に見ても、今日の海は、どこか幻想的なオーラをまとっていた。

 街角から海をぼんやり眺めながら、彼は『何故だろう』と考える。少しの間静止して考えたが、答えは出なかった。

 まぁいいか、と、より海に近い場所へと向かう。


 夜。夜。夜。


 人のいない、夜だった。

 ときおりエンジン音をともなって車が走り抜けていくくらいで、雑音もほとんどない。

 人のいない、静かな、深い夜。

 けれど耳を澄ませば波の音が聞こえる。無音ではない、静寂。


 アスファルトから砂浜へ。


 彼の耳に届く波の音は、わずかながら大きくなっていて。あと数十メートルも歩みを進めれば、波に手を触れることができる。

 手先を海に差し入れるくらいの距離感が彼は好きだった。

 だから彼は、いつも通りの散歩コースを守るために、波打ち際へと歩を進めようとして──……足を止めた。何故足を止めたのか、本人も把握しきれていなかったが、それはきっと驚いたからなのだろう。

 目に映った光景に、驚いていたのだ。





 海の中に、ひとりの女の子がいた。





 月明かりと海水を、ドレスのように着こなした少女。

 ぐっしょりと濡れた白服、同じく濡れそぼった黒髪。

 遠目にそれらを見て、彼は、今日が満月であることに気付いた。大きなまあるい月が、空に浮かんでいる。

 ムーンライトロード。

 海に映る月明かりが、まるで、少女を月へと導く道のように映り込んでいた。


「なんか買ってくればよかったな……」


 美しい風景は、それだけで素晴らしいが、夏の夜は暑い。

 アイスなり飲み物なり、何かがあると、なおよかった。

 そんなことを頭の片隅で思いつつ、きれいだな、と。遠いな、と。ずっと見ていたいな、と。

 彼はそんな風に思いつつ、海のほうを眺めていて。

 だけれど、数分経っても、少女は海から上がってはこない。

 どうしようかな、と彼は少しの間逡巡して、コンビニエンスストアに向かうことにした。

 夏の暑さに少しばかりげんなりしつつ、疲れすぎない程度に、早足で。買うものも頭の中で決めてしまう。コンビニエンスストアについて、アイスココアを一つとアイスバーを一つ手早く購入。これまた少し早足で、最後は少し駆け出して、また海へと戻ってきた。


「ん……」


 彼が海から離れて戻ってくるまで、徒歩でおおよそ20分といったところだろうか。

 その間に、幻想を纏う少女は姿を消していた。

 彼はがっかりと気落ちしながら座り込み、ココアを一口。この場を離れなければよかった、と思いながら、あおるように飲んだ。

 ぷは、と息を吐きながら、次にアイスに取り掛かる。しゃくしゃくとかじりながら、砂浜に尻をつけ、海を眺めていた。


 すると、すぐに気づく。


 別に少女はいなくなっていたわけではないことに。

 どうやら、海の中に姿を隠していたようだ。息継ぎをするように、海面にあがってきている。まるで人魚みたいだな、と彼は思った。息継ぎをしている時点で、魚というには少しおかしいのだが、そういう風に見えた。

 

 それから、30分ほど時間が過ぎた。


 ココアもアイスももう胃の中におさめてしまった。いまはただ、少しふわついた感覚のまま、ずっと海を眺めているだけだった。

 月が綺麗だった。

 月明かりが映る海が綺麗だった。

 月明かりと海を纏う少女が綺麗だった。

 好きな、光景だった。

 暗がりの中で、暗がりの中だから映える光を見ていた。


 気付けば、さらに1時間が経っていた。

 深き夜がさらに深まって、ねむけも相まって、いい加減帰ろうかな、とあくびを一つ。

 彼が重い腰を持ち上げようと気力を振り絞っていると、人魚が陸へと向かってきていた。

 彼は、じっと、その挙動を見つめていた。

 そしてわかったことは、人魚は人魚でなく、人間の女の子だということだった。

 彼にとっては目を瞬く話で、そして、少女にとっては当たり前の話。



 ──髪も服も足も、何もかも重たくて、このまま沈んでしまいそう。



 こんなのじゃどこにも行けはしない、と少女は体を引きずるように、二本の足で砂浜を歩いていた。

 

 ふと、目があった。

 彼から見える距離なのだから、少女からも見えるのは至極当然と言える。少女は、離れた位置から自分を見つめる視線に気付いた。

 より正確に言えば、視線に気付いたというよりは、人影に気付いたというほうが正しい。

 人気のない暗がりの場所で人影を見て、年頃の少女が何を思うか。この少女は、素直に「怖い」と感じたようだった。

 少し露骨に、避けるように、遠回りをして、少女は海辺から遠ざかって行く。

 その背中を見送りながら、彼は少し肩を落とす。気のせいかもしれないが、自分を避けるような所作を感じた。確かに客観的に見て、自分は不審者そのものだったな、と彼は思う。


「……綺麗だったな」

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