好きだよと囁かれて平手打ち

よなが

本編

 ショパンについては全然知りませんけれど、クリームパンは好きです。

 駅前のお店、ああ、あの覚えにくい横文字の店名を掲げた人気店ではなく、市役所方面に少し歩いたところにあるお店のやつです。値段もお手頃ですよ。   

 同居人にはクリームパンなんて子供っぽいなどと、からかわれたこともありますが、あの子が国産バターのクロワッサンとイズニーバターのクロワッサンの味の違いがわかるとは思いません。私もよくわかりませんが。食べ比べたことはないので。


 そんなふうには応じられませんでした。

 

 同じ職場の、年が二回り上の先輩から「新谷しんたにさんってピアノ好きそう。ショパンとか。よかったら代わりに聞いてきて」と言われて私は「はぁ、謹んでその名代を承ります」と答えました。差し出されたチケットをよく考えずに受け取って、それから「おいくらですか」と訊くと「あげるわ。感想を聞かせてね」とも頼まれました。「演奏はできませんが、それぐらいなら」と返すと、先輩は笑って「よろしく」と去っていかれたのです。

 休憩時間に、数名のマダムたちのお話を若輩者である私はぼんやりと聞き流していました。置物みたいになっていたんです。だから、どういう経緯でその先輩がコンサートに行けなくなったのかは知りません。


 師走の真ん中、私が聴きに行くピアノコンサートは思っていたよりも、著名な方が演奏なさるツアーコンサートなのでした。中小企業の一般事務職かつ新卒一年目の私からすると、チケット代金はべらぼうに高いです。

 半月前にチケットをいただいてから、当日になるまでに下調べをしていませんでした。実は忘れかけていたのです。

 開催場所である市民文化ホールは、最寄りの駅から徒歩十分に位置していたので迷わずに済みました。今年の春に県外の大学を卒業して地元に戻ってきて就職した私ですが、その文化ホールを訪れた経験というのはこれまで一度もありません。中学校のときの合唱コンクールで使わせてもらったのは、こんな立派な建物ではなかったな。開場五分前に到着して外からその建物を見上げながらそんなことを思います。

 

 日曜日、午後二時前の風は十分に冷たく、私はぶるりと身体を震わせてそそくさとホール内へと入ります。独りです。よくよく思い出してみれば、チケットをもらう前に、あの先輩は「新谷さん、おひとり様よね?」と確認していた気がします。薄笑いを浮かべていたのは記憶違いでしょうか。とにかく私は肯いたはずです。事実、私には配偶者も恋人もいませんから。同居人は大学時代の後輩。もっと言うと中退してから、成り行きで一緒にアパート暮らしている友人というだけ。

 ちなみにその子に勧められるがままに、今日のコンサートのためにワンピースドレスを新しく購入したのですが、グレー系を選んだのは彼女には不評でした。曰く、赤か黒にしておけばよかった、ぜったい似合っただろうにと。『赤と黒』なら学生時代に読みました。私はレナール夫人にもマチルド侯爵令嬢にも、そしてもちろんジュリアン・ソレルにもなれそうにありません。


 開場してから実際に演奏が始まるまで三十分間ありました。遅れてしまうよりはいいですが、私はその三十分を退屈に過ごしました。目に入る人たちは、想像していたよりもくだけた格好の人が多くいました。しかたなしに入場してくる人たちを、ちらりちらりと盗み見て暇をつぶしました。私の席は一階部分の奥、ステージを正面にして左側の隅に近い場所でした。すぐ右に通路がある列の端。


 私の左隣に座ったのは、例の先輩よりさらに一回り年上と見える女性でした。目は合いましたが、そこに会話は生まれませんでした。年季の入ったハンドバッグを大事そうに抱えていました。中には何かコンサートをよりよく過ごすための重要な道具が入っているのでしょうか。


 そうこうしていると、コンサートが開演されました。セットリストについてはウェブ上で事前に確認できたのですが、大半がぴんときませんでした。曲名と曲とが一致しないだけで、実際に演奏が始まると、ああ、聞いたことあるなぁと思い当たる曲もいくつかありました。


 一時間ほどでコンサートが終わって、ぞろぞろと人々が会場を出ていきます。混雑が嫌なので、私はしばし彼らの主に背中を見送ります。ふと、小学一年生か二年生ぐらいの女の子がすぐ脇の通路を進んできます。よくステージが見えて、よく聴ける前の方の席に座っていたのでしょう。

 西洋人形みたいな服を着たその子の直後を、母親と思しき人が歩きます。その少女の目のなんとギラギラしていたことか。あたかも次は自分がステージに立つ番なのだと言わんばかりの力強い目つきに私は圧倒されました。


 さて、それはそうと先輩にどう発表すればいいのだろうと悩みます。

 どうも私は自分の芸術的ないし文化的経験というのを人に的確に伝えることが得意ではありません。ましてや感動させるだなんて到底できそうにないのです。

 その点、同居人の後輩はそうした芸当に長けているのです。もしかすると私の代わりに彼女に聴いてもらって感想文を私に提出してもらえばよかったかもしれません。時間の都合と報酬しだいでは頼まれてくれたはずです。たぶん。


 ホールを出て、上階のクロークで預かってもらっていたコートを受け取ってそのまま階段を下りていきエントランスから出ようとしました。

 ですが、なんとなしに見やった方向に知った顔を見つけたのです。

 思い返してみれば、彼女に気づけたのはいくらか運命めいています。なぜなら私がそのときいた位置からして、彼女が腰掛けていたソファのある休憩スペースというのは見通しがいいとは言えませんでしたから。コンサートが終了してすぐの人が多くいる空間ではなおさら。そしてまた彼女は俯き気味でしたし、それに最後に会ったのは四年以上前になるのです。

 つまり普通だったら気づかずに通り過ぎてしまう。その状況で、私は彼女と再会を果たしました。

 

 私は彼女――――瀬戸琴葉せとことはに一歩、一歩、近づきました。

 すぐそばまで来て、彼女がただ顔を下げているのではなくて、泣いているのだと察しました。それには驚きました。なぜなら私は彼女と三年間高校生活をともにしましたが、ただの一度も彼女は私に涙を見せなかったのです。

 その彼女が今、泣いている。嗚咽を漏らしている。信じ難い光景ではありましたが、人違いだとは思いませんでした。


 冬の陽光が差し込むガラス張りの壁、つるつるの床、黒い革張りのソファに身を委ねる彼女。くすみがかったピンクのワンピースドレスを着て、膝にコートを乗せていました。私は彼女のすぐ目の前で数秒、彼女を見下ろしていましたが、それには気づかぬようでした。この巡り会わせをなかったことにして立ち去ってしまおうか、そう迷ったのは一瞬で、私は声をかけていました。空調によってあたためられた空間に、放たれたのは存外、温度のない声でした。


「琴葉ちゃん、久しぶりですね」


 高校のときと同じ、薄茶色の地毛が揺れ、彼女が顔をあげます。髪型は変わっていました。ポニーテールは失われ、そこにあるのは短く切りそろえられた髪。上から見ると、まるでトリュフチョコ。でも、甘くないんでしょうね。

 彼女が目の前にいる私と記憶とが結びつけるにのに、そう時間はかからなかったようで、すぐに「綾乃あやの?」と言ってくれました。

 期待していたのに、それを願っていたのに、いざ彼女がこうして私の名前をまた呼んでくれた事実に私はつい嬉しくなりました。怖いぐらいに。彼女の涙が気にならないぐらいに。それを忘れて、ひたすらに下手なことを口走ってしまいそうになる程度に。それが未遂で済んで、大人になったものだと自分を褒めてやりました。


「どうしてこんなところで泣いているんですか?」

「……容赦ないわね」


 首をかしげる私に、彼女は続けます。


「躊躇なく聞いてくるのね。あたしが、このあたしがよ? こんなところで泣いているのに」


 なぜ逆接であるのかと私はまた首をかしげたくなりました。私は泣いているその理由を聞いたのです。精神的にまいった彼女は私が知る、理路整然とした話しぶりというの発揮できないようでした。

 そうです、どうも彼女は精神的にまいっている様子なのです。つまりは、演奏に感極まって落涙している雰囲気とはまるで違います。そうした人なら、さっき目にしました。ちょうど私の隣に座っていた女性がそうでした。例のハンドバッグから刺繍の入った上等なハンカチを取り出して目元を抑えているのがわかったのです。


「初めて見ました、泣き顔」

「ねぇ、ちょっと黙ってくれる?」


 苛立ち。彼女の刺々しい言葉に私は従い、口を閉ざします。そうすると、彼女を見下ろしたまま立ち尽くしているのも不作法と感じて、私は空いているソファにおそるおそる腰掛けました。彼女が私にこの場を離れるのを要求しないのが救いでした。

 そうしてしばし沈黙がありました。まだまだ人は大勢、周りにいます。でも彼らは私たちとは無関係で、どこまでいっても外の存在なのです。私が彼女に声をかけるまで、私もまた外にいたのです。それが唐突に内なる存在となって戸惑いがあったのでしょう、彼女の反応はしかたないことなのです。


「そういえば、そんな子だったわね」


 ある種の諦念を思わせる調子で彼女は言い、そして肩をすくめて自嘲気味に笑いすらしました。ふわりと。ほんの微かに香る、柑橘系の匂い。


「琴葉ちゃんにとって私は嫌な子でしたか」

「まさか。あんたはいつでもいい子だった。今だって、そう。こうしてそばにいてくれる。これ、皮肉じゃないわよ」

「わかります」

「そう? それじゃ、これもわかる? あたしが泣いている理由」


 涙を拭って、彼女はにやりとしました。ああ、私の好きな琴葉ちゃんだ。けれどまだ元気は取り戻していない。空元気、強がりな彼女。こういう表情も好きだった。ううん、今でも好き。心が震えるほど。自然と口元が緩んでしまうほどに。


「悲しいことがあったのでしょうか」

「そうね。あった。過去形よ」

「それを思い出した、と。このピアノコンサートで」

「あたり。ねぇ、どんな悲しいことだと思う?」


 悲しい出来事を思い出して涙を流す。ありふれた事象。でもそれと私の知る琴葉ちゃんを結びつけるのは困難です。彼女が悲しみから遠い人間であるという話ではありません。

 たとえば、と私は振り返ります。お互いが高校生であった頃、すなわちお互いが十五の時に会って、十八歳の時に別れた頃。記憶が確かなら彼女は同居していたおばあ様の死を経験していたはずです。同じく共に暮らしていたおじい様の何倍も怖いと言っていた人です。「おじいちゃんの二倍はしぶとく生きるんじゃないか」なんて琴葉ちゃんがしかめっ面で言っていた人です。でも、死にました。あっさりと。

 あの時も琴葉ちゃんは泣いていなかった。数日の間は、全然笑ってもいませんでしたが。彼女は悲しんでいました。


「その悲しみは、人の死ですか」

「綾乃にしては近道できたわね」

「そういえば、遠回りが得意ねってよく琴葉ちゃんに怒られましたね」

「怒っていないわ。あたしなりの愛の鞭。言わなかった?」

「聞きたくない言葉でした」


 琴葉ちゃんは笑わずに、ただ溜息をつきます。ひっそりと。粉雪が地に落ちて溶けるみたいな。


「綾乃は知らなかったんだね。まぁ、これは予想どおりか」

「なんのことですか」

淳史あつしが死んだのよ」

「寺島くんが? それは……えっと…………」

「何も言わないで。お願い。綾乃でも許せそうにない」


 寺島淳史。

 高校一年生の秋頃から高校を卒業するまで、琴葉ちゃんと私との会話のうちで、話題の二割は彼で占められました。補足しておくと、一時は四割強にも達しました。彼女が彼に恋に落ちて、その心身を悶えさせていた時期。それから恋が成就して、やっぱりその心も身体も彼への想いで支配されきっていた時期。

 私が初めて誰かを真剣に憎んだ時期であり、その対象は他でもなく私自身であった時期でもあります。

 どうやったら二人の仲を裂けるかを、そう考えてしまう私が憎くて憎くて、どうしようもなかったのです。彼女の幸福を受け入れられず、きちんと祝福してあげられない自分が醜くて醜くてたまらなかった。正しくなれない自分を殺してしまいたいのに、一方で琴葉ちゃんが正しくないとも思ってしまう自分がいるのが怖くて怖くて狂ってしまいそうだった。そんな私でした。過去形、そう、過去の私です。

 

 瀬戸琴葉への愛情を自分の内に容易く認めてしまえたのに、それと嫉妬とを繋げるのはなかなかできませんでした。認められなかった。嫌だった。


 彼女の大切な人が死んだ。そのことで彼女は悲しみ、今も偲んで涙を流している。


 ずるいな。

 大人になった私はその言葉を飲み込むことができました。危うく、呟いてしまいそうになったその言葉。死後なお、琴葉ちゃんを縛り付ける彼への恨み言。


「琴葉ちゃん。私にできることはありますか」


 彼女が首を横に振ります。そうしてから「でも……そうね」と静かな声を出して私を今一度見つめてきました。


「そばにいて。もう少し。今だけでいい」

「わかりました」


 時間が過ぎていきます。厚紙を濡らすように。一枚、また一枚とふやけては破れてしまう。何も重くのしかかっていないように見えて、その重みは確かに在る。抱えているのです、彼女は。背負っているのです、ずっと。


 二年前だったそうです、彼が亡くなったのは。

 その時は彼らは地元とも私が通っていた大学のある県とも違う別の土地にいて、大学生活を送っていたらしいです。知りませんでした。ふたりが無事に同じ大学に合格したのは知っていましたけれど。

 その土地で彼らは記念日にピアノコンサートに赴きました。寺島くんが五歳から十四歳までピアノを習っていたのは琴葉ちゃんから聞いた覚えがあります。

 そのコンサートが彼らにとって最後のデートになったそうです。

 おそらくは同じ曲が今回のコンサートであったのでしょう。生きている側に彼女にとって凄まじく特別となった曲が。

 

 彼女はふたりの思い出を詳しくは話してくれませんでしたし、私は聞きたいとも思えませんでした。

 かつて彼女の口からラフマニノフという音楽家の名前が出た際、それが彼の口にしたものだというのを知った時に、興味が微塵もなくなりました。しかし記憶には深く刻まれてしまいました。今、それと似たことが起こった。そう私は感じられました。


 私は琴葉ちゃんの手にそっと触れます。空調だけではその指先まではあたためられません。私たちの手先は冷えていました。重ねてやっとそれがわかります。


「綾乃? なんでそんな顔しているのよ」


 愛しい彼女に名を呼ばれて私は覚悟を決めました。


「琴葉ちゃん、ずっと好きでした」

「……は?」

「なんとなく気怠いとみなされがちな顔立ち、でもいつも熱がこもっているその瞳でもっと見つめてほしかった。うっとりするぐらい大人びた唇で触れてほしかった。その細腕でぎゅっと抱きしめてほしかった。その胸に顔をうずめるのを許してほしかった。でも、そんな外身なんて本当はどうでもよくて、ただ、その優しさも厳しさも、全部私にだけほしくて。それだけでした。それだけだったんです、あの頃は」

「えっ、急にそんなの、今言われても……」

「私は最後まで好きになれませんでした」

「え?」

「私は寺島くんのこと、永遠に好きになれません。琴葉ちゃんに愛されて、勝手に死んで悲しませている人のこと、私は――――」


 灼熱が走った。刹那、痛みとしてそれが右頬を燃やし続ける。

 

 琴葉ちゃんの憤怒に満ちた形相を目にするのは二度目でした。

 一度目、それは二年生の時のクラスの女の子に向けられていました。私たちとは別のグループ、ちょっとやんちゃな女の子たちの集まりのボス。その子が寺島くんのことをけなしたのです。野菜かなにかで喩えて、そこにさらに侮蔑的な表現を加えて。そう記憶しています。

 あの時の琴葉ちゃんは私が止めました。私にそのつもりはなかったのですが、対峙した彼女たちにとっては、場の空気を著しく乱すような、ようするにずれた発言をして、それでその場は幸いにも収まったのです。

 大人になった私はとうとう想いをぶちまけ、そして彼女もまたそれに対して、真っ当な仕打ちを私にしてくれました。止める人はいないのです。


「あたしも……もう永遠にあんたを好きになれない! 消えなさい、今すぐあたしの視界からっ!」


 叫びでした。平手打ちの音よりも大きく。いえ、私はその頬を打った音をうまく認識できなかったのですが。私は言われたとおりに消えます。彼女から離れます。外に出てコートを羽織ります。冬の風が痛い。でも死ぬほどではないんです。




 自宅に戻ると、芙美ふみちゃんが私を見て目を丸くしました。慌てて救急箱を持ってきてくれます。二人で暮らすことになった際に、私が買ってきたものです。一人の時でも必要だって思うよ、と芙美ちゃんは言っていました。


「綾乃さん、マジで空気読めないもんね」


 口を動かすのも痛くて、冷やして痛みを和らげている最中でうまく話せないというのに芙美ちゃんが事情を一から全部説明しろとうるさいので、私は時間をかけて教えてあげました。そして話し終えての一言。ひどくないですか。

 芙美ちゃんが淹れてくれたハーブティーは温かく、少し苦味がありました。

 ダイニングテーブルに並ぶ二つのカップ。正面に座る芙美ちゃんの分のカップは既に空でした。


「ちがうんです」

「なにが?」

「たしかに私は空気を読むのが苦手な、はっきり言って頭の弱い子です」

「そこまで言っていないけど。てか、自覚あるだけマシというか」

「けれど、今回はそんなの関係ないんです。私は告白したかったんです。琴葉ちゃんに。私の好きを」

「それとその死んだ彼氏への嫌いを?」

「嫌いではありません!」

「うわっ! お、大声あげないでよ。わ、悪かったって。でもさ、そのタイミングで告白って。自分勝手だなー、それ」

「…………はい」

「そこまで一気にしおらしくなられると、困る。振り幅すごいね」


 沈黙。ぐうの音も出ません。

 私の二つ年下の芙美ちゃんは漫画家になりたくて、その夢を叶えるためになぜか大学を退学するという選択をしました。そして同じサークルに所属していて地元も一緒だった私に情けをかけられ、ここにいます。かれこれ半年余り。アルバイト代のほとんどすべてを私に献上して、それで私はなんとかこの生活を維持しています。別の市に住む彼女の親御さんから月に数万円の仕送りがあるのは二カ月前にばれてしまいました。ちょうど彼女が某出版社の編集部の方からSNS経由で声をかけられたタイミングであったのは、幸か不幸か、今はまだ結論は出せません。


「で、少しはすっきりした?」

「どうでしょう」

「そう見えるけれど」

「本当ですか?」

「開き直ったり、しおらしくなったり、でも、やっぱどこかすっきりした感じ」

「肩の荷を下ろしたのでしょうか」


 再会した同級生。片思いしていた女の子。

 秘めていた想いは伝わりはしたが、断ち切られた。そうなるよう、自分自身で仕向けてしまった。


「向こうからしたらいい迷惑だけど」

「うっ……。どうにか探して、謝ったほうがいいですか」

「馬鹿だね、綾乃さんは。もしそれが運命であるのなら、また二人は交点を持つことになる。そうでないのなら、このまま平行線で進んでいく。それもまた運命なんだろ。その人の傷を癒すのは綾乃さんじゃない」


 生真面目な声色で芙美ちゃんが私をじっと見つめて言いました。


「では、誰が……?」

「さあね。いずれにしてもさ。謝りにいくのも、自己満足。身勝手だって思うよ。綾乃さんは彼氏さんを悪く言ったんじゃない、ただ好きになれなかったってそう表明しただけ。でしょ?」

「それは、そうですが」

「その人もそうだと思える日も来るかもね。今はただ傷つきたくない、誰か他の人が彼のことをどんなふうにでも口にするのが許せないんだよ、きっとね」


 芙美ちゃんは椅子から立ち上がって、てっきりおかわりを淹れてくるものだと思いきや、カップなんて持たずにただ私の背後まで来ました。「どうしたんです?」と振り向こうとしましたが、そうする前に彼女が私を後ろから抱きしめるものだから、身動きができませんでした。彼女のすらりとした腕はきちんと私のお腹あたりに回っています。その手のひらは描き続けている人のものでした。爪には飾りも色もなく。琴葉ちゃんとは全然違う。


「はぁー、椅子が邪魔だわ」

「芙美ちゃん、慰めてくれるのですか」

「どうしようかな」

「一つお願いしてもいいですか」

「なに?」

「私を傷つけてください」

「どういうこと?」

「何かひどいこと言ってほしいなと。それで私は芙美ちゃんに平手打ちをします」

「なんでそこまでセットなの!?」

「加減はします。儀式だと思ってください」

「いや、慰めるとか励ますとか、そういう話じゃなかった?」


 芙美ちゃんが私から離れます。そして私の顔を横から覗き込んで、頬の状態を確認しました。


「ばっちり痣になっている。これ、治るのに一週間、ううん、もっとかかるかも」

「消えなくてもかまいません」

「愛の鞭として残したいわけか」

「芙美ちゃん、私だって怒りますよ?」

「なんでさ。怒りたいのはこっちだよ」

「そうなんですか」

「うん。もしも綾乃さんが憑きもの落としたふうな表情していなかったら、その瀬戸内だか瀬戸内海だかって人を見つけて警察に突き出していた」

「瀬戸ですよ。琴葉ちゃんです」


 私の訂正に何も返さず、芙美ちゃんは今度こそハーブティーのおかわりをキッチンに用意しにいったようでした。ポットごと持って戻ってきます。


「こっちも好き勝手やらせてもらおうかな」

「どういう意味です?」

「さっきの話、引き受ける」

「え……?」

「なんで驚いているの。綾乃さんが言いだしたんでしょ。綾乃さんにひどいこと言って、それでその平手打ちをもらう。もらってあげる。まぁ、たまにはいいかなって」

「ええと、創作意欲が出るような体験になればいいですね」


 儀式と自分で口にしておいて、そんなふうにして琴葉ちゃんとの思い出を繋ぎ止める自分を恥ずかしく思います。それは彼女がピアノの旋律で亡き想い人を心に甦らせるのとは異なるのですから。私のほうは、子供じみているというか、陳腐で拙く、惨めです。

 けれど、そうですね、強がってみせるなら……私は今、独りではありません。


「ありがとう、こんな私に付き合ってくれて」

「綾乃さんにはいつもそれぐらいくだけた口調でいてほしいけどね。覚悟はいい?」

「芙美ちゃんこそ」


 芙美ちゃんは微笑んで椅子ごと私の隣に移動します。椅子をぴったりくっつけて。

 文化ホールで私と琴葉ちゃんの位置取りと同じ。芙美ちゃんが私が膝の上においていた手を握ってきます。重ねるだけではなくて、指を絡めてきます。その指先は熱いぐらいで。


「好きだよ」


 芙美ちゃんの囁き。それは私にちゃんと届いていたのに、意味を理解するまで時間がかかってしまいます。それなのに、いえ、もしかすると私がそんなだから、彼女は続けて囁いてきたのでした。


「綾乃さん、わたしじゃダメかな? まだ夢見る弱小生物だけど、綾乃さんへの愛なら、めちゃ強だよ。わたし、綾乃さんがほしい」


 ぺちんっと。私は芙美ちゃんの頬を打ちます。指を絡められていない手で。力が全然入らなくて。ただ彼女の頬の柔らかさを知るばかりで。


「芙美ちゃん、それ……嫌なことじゃないです。傷つくどころか……そんなの、えっと……ずるいです。切り捨て御免ってやつです」

「いや、切った覚えも捨てたつもりもないんだけど」

「いいんですか、私で。クラシックコンサートに出かけて、クロワッサンのことを考えながら、うとうとしちゃうダメ女ですよ」

「音楽性は人それぞれだから。そういう綾乃さんも好きだよ」

「再会した親友に、言いたいことを言って平手打ちされて帰ってくる馬鹿女ですよ」

「そんな卑屈になるのは綾乃さんらしくないかな。にこにこしてクリームパン食べていたほうが可愛いよ」

「……考えさせてください。私なりに芙美ちゃんとのこと、真剣に――――」


 芙美ちゃんが手を引っ張る。指をほどくことなしに、私の身体を抱き寄せて。たしかに椅子が邪魔かもしれないな、なんて思います。


「上書きしとくね」

 

 私の頬に芙美ちゃんがキスをしました。じんじんと痛みが残るそこに、彼女の唇が吸いついた事実はやっぱり信じられなくて。


「綾乃さんが受け入れてくれたら、今度は新しくわたしの好きを、身体中にどんどん残しちゃうんだからね」

「い、痛いのは嫌ですからね?」


 芙美ちゃんが笑います。私も笑ってみて、そして泣けてきました。


 好きだよと囁かれて平手打ち。

 頬に零れる恋の始まり――――。 

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好きだよと囁かれて平手打ち よなが @yonaga221001

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