第3話
次の日には光橘(みつき)は体調を戻して学校へ来た。
二日ぶりに菫斗(すみと)と顔を合わせたが特にリクションも無く時間が過ぎていく。後ろの席で見ていた雪椛も顔を顰め、彼女に目で合図を送るがうまく伝わらなかったよう何度もすれ違いを起こしていた。
一方の菫斗はあの天使の情報が少しだけ手に入ったことで、勉強への勢いを滞らせていた悩みの栓が抜けて英単語帳と向き合う。知れた先に何かあるわけでもないが、妙に惹(ひ)かれるのが値段以外にも別にある事は理解している。
何故、忘れることが出来ないのだろうかと自問を続けてきたが、三ヶ月経ってもその答えは出ていない。
「ねぇ……菫斗?」と光橘は両肘を机に立て、顔を傾けて声を掛ける。
菫斗の視界の端には写っていたが、あえて反応を拒んだ。
中身のない話だろうか、ただ呼んでみただけだろうか、幾つも時間を無駄にしてきたパターンがある。
「無視するなんて酷い人ね、私無しじゃソワソワするくせに」と光橘は周りに聞こえるように煽り、他生徒の視線を確認するとうっすらと微笑んだ。
「聞こえているけど後にして」と菫斗は目線を英単語帳に向けたまま返す。
「後っていつ? 次の休み時間? 放課後?」
「後で」------昨日の雨が乾き切っていない校庭から聞こえる、野太い男子生徒の叫び声。そんな遠くの声すら拾ってしまうほど集中が続かない環境にいる。ただ、なくなってしまっては寂しい。
そんな事を思う菫斗の生活に、光橘の鮮色が足されるのはもう少し後。
あれから日が過ぎ、ここは悪天候の影響を執拗に引きずる日陰道。
菫斗は昨日の雨できた水溜まりを大股で飛び越える。すみれ通りへ向かう下校中の彼は近道と称して広々とした田んぼの畦道を通り、数本の丸太でできた粗末な橋を通っていく。
常に前だけを向いていた彼に、ようやく後ろを振り向かせたのは息を切らした光橘。
「なんでもっと私を気遣う道を選ばないわけ? 靴汚れたんだけど!」光橘は怒りを全面に出し、声を荒げる。
勝手についてきたと言う程で菫斗の背中を追い、ぬかるんだ道や細い畦道までも難なく進んだが、腐った木色をした丸太の橋は無理だったよう。
川中辺りで引き返して反対側から言葉にならない怒りを叫ぶ。
光橘が橋を渡れず叫ぶ------四時間も前のこと。
放課後に菫斗は一人で自習室に向かっていた。
シャツの袖を巻き上げて端席に座り、携帯の電源を切ってノートを開く。そんな月並みな動作を偶然、部屋前へ通りかかった光橘が見ていた。
目に映る姿は背中だけ、微妙に腕あたりが動く。
そんな事をする彼女に呆れ果て、雪椛は先に階段を上がっていく。
残された光橘は自習室の方へ向かい、部屋の扉を開けると音を立てずに角席まで足を進める。多くの生徒の後ろを通り過ぎて菫斗まで辿り着くと、首を伸ばして彼の頬横の隙間を覗き始める。
そこには堅苦しく窮屈な文字が並んでいるのではなく、人を模したような絵がいくつも描かれている。
両肩には緻密に書かれた二枚の大きな羽と涙のような模様。
「えっ……天使?」
そんな光橘の顰み声に菫斗は驚いて上半身を旋回し、数秒間沈黙で見つめ合う。
「……邪魔しにきたつもりじゃ無いから! ごめん!」
点な目をした菫斗は唖然として口元の筋肉を緩める、出てくる言葉が無かった。
「ごめん、もう帰るから。時間とらせてごめん」と一息でそう伝えた光橘は、落下したペンを拾って机に置き肩を窄めて部屋を出ていく。
出た先には親切に戻ってきた雪椛が待っていて、見守る母親のよう大きくため息をこぼした。
「そういう事してるから嫌われていくんじゃないの?」と言葉を掛け階段を登る。
「分からないけど、〝何か〟が私にそうさせるの」
雪椛はゆっくりと振り返り「変なこと言わないでよ」と光橘のシャツの袖を掴んだ。
「菫斗じゃなきゃいけないっていうか……よく分からないの」
階段の中腹、二人は立ち止まる。
「何? 頭おかしくなった? 分からないのは私の方なんだけど」
険しい表情の雪椛、掴んでいた袖を思い切り引っ張る。
「私はもっと分からない、逆に教えて? どうして私はこんなにも菫斗に惹かれるの?」
「今の光橘、気持ち悪い。何かに取り憑かれているみたいにさ……」
焦ったような息遣いの光橘は壁に寄りかかり、目を瞑る。
「ねぇ……本当に大丈夫? まだ風邪治ってないんじゃないの?」
その後に雪椛は半ば強引に保健室へ光橘を投げ入れた。
授業終わりのチャイムが響いた頃、言われるがままベッドへ寝かされた彼女は真っ白な天井を見つめていた。
「まぁ、微熱だね。少しだけ横になったら真っ直ぐに家に帰りなよ?」窓外の校庭に話しかけているよう、保健室の先生の視線は彼女ではなく外の生徒。
U字のカーテンを閉め切り、光橘は鞄から携帯を取り出した。そのまま通話履歴を開き、真ん中あたりに出てきた菫斗の名前を見つめる。
急な一目惚れをしたわけでも窮地を救われた経験があるわけでも無い、ふとした瞬間に光橘は惹かれた。
彼女は〝何か〟に急かされているように、無理に距離を縮めようとしたことも自覚している。周りから見れば、それは------気持ち悪いらしい。
一時間ほど横になり、カーテンを開けると先生は留守。
光橘は鞄を持ってすぐに保健室から出ると、そのままの足で菫斗が勉強をしている部屋に向かう。大半の生徒は下校していて廊下ですれ違うのは数人、明かりを消されている教室も多く足音が執拗に耳に付く。
遠くに聞こえるのは部活に励む生徒の声と線路の擦れ音。光橘は肩に鞄をかけ直して階段を駆け上がり、ゆっくりと歩幅を大きくして菫斗のいる部屋前を通り過ぎた。
一時間前に来たよりも生徒は増えていて奥の席に座っていた菫斗は見えない。
別のガラス窓からも部屋中を見てみるが姿は無く、数分迷ってようやく彼女は諦めた。鉄製の扉を開けて靴を出し、片足ずつゆっくりと履いて外へ出る。傾き始めた太陽でさえ素肌に鋭くぶつかり、すぐに蒸し暑さ感じた。
視線を人が散らばった校庭に向ける。暑さで伸びてしまった枝葉、力無さそうに弱々しい風に揺られて微かに音を出す。
その先からはサッカー部の掛け声が聞こえてきて、たった一人でいることへの急な悲壮感が光橘を襲う。
その姿はまるで、いつものような嬉々とした表情を知らないもう別の光橘のよう。
頭上の空は光橘の心情を察したのか、分厚く灰色の雲が陽に被さって影を増やした。薄暗くなった全身をゆっくりと見回し、彼女はその湿った雲よりも先に雨を降らす。
「意味わからないのは私の方……嫌われて笑っていられるほど私はタフじゃない」
俯きながら、泣きながら、そう呟く。
「私は本当に……気持ち悪い。雪椛が言っている通りの人間だよ」
光橘はヒロインを気取ったよう、歩道と自転車を隔てる白線の上を大股で進む。夕陽はスポットライト、斜めに投射された影に視線を移し、表情のない姿をじっと見つめる。
勢いよく右腕を上げれば影も追いかけてきて、足を開けば影も変わる。光橘は両肘と手首をくの字に曲げ、羽を刈られた鳥のようなポーズになる。地面に映ったのは小さな羽を生やした天使のよう。黒いが、堕天使だろうか。
「……菫斗は天使……みたいな女の子が好きなのかな」
数時間前に見た菫斗のノートの落書きを今更になって思い出す。
スッと動きを止めた光橘の影が、後ろから歩いてきた生徒と重なるが、すぐに人型を取り戻した。
「------体調悪かったんだろ、雪椛から連絡きてたけど」
風に匂いがある、そんな事を考えながら頬を持ち上げ、光橘は通り過ぎたのが菫斗だと数秒後に気がつく。
「まだ……学校に残ってたんだね。心配だったの?」
「病み上がりって知ってるし。この時間じゃ電車も座れないだろうし、体調悪いのに」
光橘はようやく歩き出し、信号で止まる菫斗の横へ立つ。
「心配?」と切り替わったばかりの赤信号を眺め、呟く。
「最近、ずっと本調子じゃなさそうなことは気付いてる。雪椛も言ってたし」
「心配?」
会話がまるで発展しないことへ菫斗は苛立ち、舌打ちをする。
「一番心配してたのは多分、雪椛。大事にしろよ、あんな良いやつ」
「あぁ言う、天使みたいな性格の子がもしかして好きなの?」光橘は少し下から、菫斗を覗き込む。
「本っ当に会話にならないな」
「気を遣わずに話せる、私みたいな天使の容姿した人、大事にしたほうがいいよ」そんな中身の無い会話を続けながら最寄りまで歩くと、菫斗は振り向きもせず光橘とは別のホームへ歩いていく。
ぴたりとくっついて進んでいた二つの影が、手を伸ばしても交わらないほどの距離離れると、彼女はようやく声を掛ける。「------今日は電話できる?」
光橘らと同じ制服を着た生徒が横を過ぎる中、切なさを醸し出すような声で菫斗を引き止めた。
「体調悪いんだろ、今日はせめて早く寝たほうがいい。誰だってそう言うよ」
線路を真ん中に挟み、その両端にホームがある駅のため方向によって立つ場が変わる。菫斗はエスカレーターに駆け上がり、少しして足を止めて流れに身を預ける。
光橘は一瞬、見上げはしたものの引き留められないことは理解していた。いつもそうだった。
彼女は声を張り上げる。頭に血を昇らせ、体調の良し悪しなど関係なく。
「また明日っ!」
エスカレーターは冷徹だった。むしろ、早まったのかと思うくらい遠くへ霞む。声は聞こえていた菫斗、すぐにイヤホンを取り出して好む籠の中へ。
光橘は反対側へ渡り、同じようにホームへ登る。声を出したからか、心音が早く小さく深呼吸をして落ち着かせた。
それから一時間後。何故か光橘は菫斗を追いかけ、最寄りで偶然を装い隣へ立っている。
互いが別のホームにいたが〝何か〟に手を引かれた彼女は一度下り、彼のいるホームへと上がった。最悪だと表情に浮かばせないよう、彼は必死に遠くを見つめる。
時が止まったような古臭さの駅。タイル貼りの通路は少しばかり湿っていて、壁の絵は剥がれ落ちていた。風を遮るものもなく、線路へのバリケードも最小。この駅で下りたのは二人だけ。
健気に隠れていた光橘もなす術(すべ)もなく空の下へ置かれた。
「また明日って言ってただろ、またしつこく雪椛に怒られんぞ」
光橘は眉間に気まずさを溜め、広大な畑を撫でてきた風を感じながら口籠る。
「もう光橘が帰る頃には八時とか過ぎるよ、今帰ればそんな事はない」
一応、菫斗も心配はしていた。それでも、どう帰らせようかと同時に考える。
「ドラマみたいな展開はないかな?」
「どんなだ、それは」
「菫斗のお母さんが、〝夜ご飯食べていきなよ〟って言ってくれるとか」
「無いな」と言葉を残し、菫斗はそそくさと改札へ向かう。時刻は六時、ようやく涼しさを運ぶようになった風、揺れるスカート。
菫斗に置いていかれる情景は何度、目に映したことか。
それでも光橘は追いつく。
4話へ続く
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます