第2話

 その夜、菫斗(すみと)の携帯からひっそりと通知音が鳴った。


 ひたすら自らが書き出す文字と向き合って過ごしていたが、そんな音が集中を一旦区切る。椅子から立ち上がるとベッドへ座り、窓枠に腕を乗せた。


 開かれたカーテンから覗く二本の電柱、網戸の裏に張り付いた小さな虫を指先で飛ばす。携帯の画面には「光橘」(みつき)の名前が浮かび、長々と文章が続いていたが全く返す気にもならずに再び参考書を開いた。


 続けて通知音は鳴って、二回三回と止まらない。


 視界の端でチカチカと画面が動き続ける。

 持っていたペンを強く机上に打ち付け、菫斗は携帯電話を握って再びベッドへと飛び込むと、天井の明かりを遮るよう腕を伸ばした。日中に迷惑をかけた事への謝罪や、話題の続きが画面に映る。

 くだらないとは思いながらも数十文字の言葉を返すと、すぐに光橘からの返事は来た。

 「もしかして今、勉強中?」


 急な話題の切り替えに驚きもしたが、菫斗は続けて素っ気なく返す。

 「暇なら少しだけ電話できない? 少しでいいから」

 そんな返しに菫斗は一旦携帯を閉じ、窓外に視線を移した。適切な答えが書いてある訳でも無いのに、目を丸くしてぼーっと何かを見つめる。


 「あれ? 急に勉強に戻った?」と光橘は相手の都合を気にする事なく、まるで対面のようにメッセージを送る。


 もう寝るつもりと菫斗は返すと、涙を流す顔のスタンプが送られてきた。が、それ以降に文字は続かなかった。


 数十秒、菫斗は画面を眺め続ける。


 携帯電話を持っていた腕を大きく旋回し、布団へ着地したタイミングで再び通知が来る。

 「返信が遅いなって思ったでしょう?」

 どこかで行動や思考を見ているような返信に驚いたのか彼は呆れ、うっすらと微笑む。


 「じゃあ、一分後に電話をかけるね」

 そんなメッセージが送られてきた後すぐ画面が切り替わり、菫斗に三通りの選択が与えられた。応答、拒否、無視、今までは悩まずにできていたものでも、相手は少し仲が良い光橘。


 一定間隔で鳴り続ける着信音に合わせるよう高鳴る心音、一思いに「応答」へ指先を動かすと耳周りにはようやく静寂が訪れた。


 「------もしもし」菫斗はゆっくりと耳に添わせ、壁に寄りかかる。


 「待って、まさか電話に出てくれると思っていなくて……イヤホン探すわ」

携帯電話の向こう側、それとも数十キロ先からなのか、普段聞いているはずの光橘の声は妙に落ち着いていて、菫斗も合わせるように声量を落とした。

 ガサガサと言う物音をマイクが拾っていて、急いでイヤホンを探す姿を彼は想像しながら待つ。


「あった! 声聞こえる? 私の可愛らしくて愛らしい声」

「そんな良いものは聞こえないけど、ちゃんと聞こえてるよ」

「学校ではなかなか話せないもんねぇ」


 薄暗い部屋で光橘は窓枠に腕を乗せ、網戸の隙間を通る生暖かい風を頬横に当てながら話す。

 「別に学校じゃ話す事ないし、で? 何か話す事があるのか?」 

 菫斗は素気ない話し方だが、光橘は「うーんとねぇ……」と口角を上げて繋ぐ。

お互いの表情が手に取るように分かった気でいたがどうやら違ったよう。


 光橘はすぐに涙の膜を張っていく。上げていた口角は涙腺を占めるものであって、楽観な事は無かった。


 「ま、まずは私のことをどう思っているのかを……聞いてみたくて」

 声が震えるため、彼女はゆっくりと語尾を伸ばして話す。

 「隣の席の人と……少し変化球な自信を持っている人かな」

 「結構、良い感じに思ってくれているのね」

 「全然良いやつだとは思うけど、なんだかな」


 時刻は十一時、夏虫も疲れて鳴り止む静かな夜。

 「なんだか……可愛すぎて振り向かせるのが難しい、って言いたいの?」

 「そう言ってくれる人とかと仲よくすれば良いじゃん」


 「菫斗じゃなきゃ〜、菫斗じゃなきゃ〜」と何かの音程に合わせて返す光橘。


 「それなんだっけ……Mr.Childrenの『Your Song』だっけ------」


 それから三十分ほど電話を続けたが結局、光橘が寝てしまったことで終わった。窓枠に腕を乗せたまま、光橘のまつ毛の先に付いた雫を遠くの電灯が照らす。


 彼女が電話の向こうで泣いていた理由を菫斗が知るのは、もう少しだけ後のはなし。


 今朝から映像と音の繰り返しのように雨が降り続き、昨日の夜空の穏やかさは微塵も感じないほどどんよりとした灰色雲が分厚く菫斗の頭上に構える。

「昨日はあんなに透き通っていたのに……雨か」


 菫斗は鞄を前に抱いて傘を持ちながらすみれ通りに入り、落ち葉と砂で詰まった集水桝の上を踏んで水溜まりの無い道を歩いて駅を目指す。

 あの〝天使人形〟がある鳳仙花商店の側を通ると、奥の椅子にひっそりと座る老人と目があった。


 店横の長椅子で雨宿りをする年老いた女性が菫斗を目で追う。地面と靴腹が何本もの水糸で繋がれては、離れる。菫斗はそのまま店を通り過ぎ、駅へ向かって行った。


 その頃、長椅子に座っていた女性は店へ入り、店内の木椅子にまた座る。

「おお、清子(きよこ)。雨でも来るのか、家でじっとしていれば良いのに」


 鳳仙花商店の店主、泰平(たいへい)は入ってきた清子に声をかける。清子は泰平の古い友人、二人の歳は同じ六十五歳。


 「雨でも腹は減るからね……」

 清子は花柄の刺繍が入った小さなお財布を取り出し、側にある丸机に置くと店内の奥へと歩いて行った。雨音から逃げるように玩具が多く壁に飾ってある場所へ着くと、足元の裾を持ち上げてゆっくりと段差に座る。

 淡いオレンジ色の光は多くの玩具に当たり、一体感は生まれつつも視界に含まれる色は多い。竹串を使った簡易的な物から鉄製のロボット、ヒーローがプリントされた両翼を持つ大きな凧。


 所狭しに飾られた多くの玩具たちは雨音を霞ませるには十分なほど、没頭というか、引き込まれるというか。あの頃を思い出すというか。


 清子は重たそうに首を上に向け、天井に貼られた年代物のポスターを眺める、薄目を開けてオレンジ色の点々とした灯りを霞ませながら。

 「本当に清子はここの空間が好きだよなぁ」

 店の入り口に座っていた泰平は腰元に手を当て、清子がいる奥の部屋へと入った。


 天井に吊るされた連結ビーズと金メッキのキーホルダーの束が、ジャラジャラと左右に揺れている。


 「私の死に場所はこの店って決まっているの」

 「最近よく言っているけど、全然死なねーじゃんかよ」

 泰平は棒カルメの入った容器を床へ置き、清子の隣に座る。棒カルメとは溶かした砂糖に重曹を加え膨らませたもので、それを食べやすいサイズにカットして棒を刺したもの。


 昔から清子のお気に入りの駄菓子で、ここへ来ては毎回齧って帰る。


 「そんなこと言っていいの? 明日にでも私はいなくなって、しまうかもなのに」

 二人は視線をゆっくりと右へ、左へ移しながら微かに聞こえる雨音に耳を澄ます。

 「見たと思うけどよ……店前にあの〝人形〟を置いたんだよ」

 「見たよ、あんな値段にして……どれだけ未練ばかりの爺さんなのよ」

 清子は棒カルメの容器の丸い蓋を捻り、飛び出した白い棒を掴むとそのまま口元へ運ぶ。


 「そりゃあ……唯一の後悔だしよ、あの人形に惹かれちまった人がいたら、次はその人に譲ろうと思ってる。罰当たりかも知れねえけどな」


 「さぁ……そんな人がこんな廃れた街にいるのかね、捨てれば良いのに。あんな物」

 清子は薄茶のカルメの先を前歯で齧る。

 「いなかったら……きっとそのまま飛んでいくさ。あんなに大きな羽を持ってるし」

 「何馬鹿なこと言ってんのよ。ほんと泰平は馬鹿だよ」

 「そんな馬鹿な人に?」と冷やかしの表情で返すと、清子は持っていた棒カルメを泰平の頭に強く打ち付ける。


 それからゆっくりと立ち上がり、「じゃあ、また食べたくなったら来るからね」と言い残して清子は店から出ていった。机の上に置かれたままの花柄の刺繍が入ったお財布を泰平は手に取り、うっすらと微笑む。


 上下に振ると硬貨が当たる音、中には大量の十円玉。


 「まだまだ生きる気じゃねーか」

 泰平は中から十円玉を一枚抜き取った。また明日、ここで待っている。



 菫斗はやけに隣の席に視線を向けていた。行動ついでという訳でもなく、勉強の区切りや黒板の書き写し中など。

 そんな姿を後ろから見ていた友人の雪椛(せつか)は違和感を抱く。


 やがて三限目にもなるとノートの端に正の字を書き始め、授業を放って菫斗の奇妙な行動の監視を始めた。少しずつ正の字は完成され、授業が終わる頃には完成形は三つ。

 休み時間になっても菫斗が参考書や英単語帳を開くことはなく、ぼーっと何かを考えては、否定するよう大きく首を振る。


 今日は理由無く光橘が学校を休んだ。

 せっかく菫斗は落ち着きを得たのに、何故だかあの騒がしさを求めていた授業中。腰を浮かせてみたり、意味もなく空を眺めたりを繰り返していた。午後には雨も止み、コロコロと空模様を変える今日。


 菫斗も似たような感じに思えてくる。


 「結局、毎日面倒臭そうに相手していたけど、寂しいんじゃん」

 後ろの席の雪椛はノートの端を見せつけながら突然、菫斗に突っ掛かった。

 「何これ?」と正の字に目を移した菫斗は、既に不思議そうな表情。

 「あんたがいるはずの無いお姫様を、どうにかして見ようとしていた回数!」

 複雑な比喩を用いたせいか、菫斗は理解できなかったようで首を傾げる。


 「だから……! 休んでる光橘の席に目を向けた回数!」


 「最初からそう言えよ、なんか違和感があるんだよ。今日は特に」

 後ろの雪椛に体を向け直し、ノートの端の正の字を消しゴムで擦り始める。

 「そりゃ、あんだけ毎日見られてたらね。普通に友達でもあの距離感は引く」


 共感したように菫斗は頭を軽く上下し、普段の光橘を思い浮かべた。やたら話し掛けられて、中身の無い会話をする。それでも楽しそうに笑っている姿を。


 その友人の雪椛は、眉下ほどの前髪をいつも気にしているようで向かい風を嫌う。

 二人がいる場所は窓際席のため、吹き抜ける風が直に当たる。何かにぶつかって弱まった風や、匂いを巻き込んだりもしない。


 「実は昨日の夜、光橘と電話してさ……」


 雪椛は衝撃だったようで、声を出さず鼻や目を大きく開く。初めて見る表情だった。


 「何でそんな事になってんのよ! 休みの理由、私は風邪って聞いてるよ」

 「昨日は元気だったけど……寝違えたんじゃねーか?」と、しっかり正の字が消えた事を確認すると、菫斗は体を前に向け直す。休みの理由などあまり興味が無かった。


 「じゃあ風邪じゃ無いのかもね、帰りに寄ってみようかな。一人で」と雪椛は末につれて声量を落としていく話し方、だが菫斗が食いつく事はなかった。


 無理に無心を装うように目を閉じてその場は過ごす。


 その後も数回ほど雪椛に誘われたが、菫斗は下手な理由をつけて断り続けた。



 結局一人で下校をすることになった雪椛は、日傘を差して線路沿いを進む。

 歩道まで伸び切った雑草が脛を掠め、何かの虫だと勘違いした彼女は早足で進んだ。


 ふわふわと背中で跳ねる髪先、ようやく感じる夏場の涼しさ。

 光橘の家は最寄駅から徒歩で二十分ほど。途中に信号機が数えるほどしか無く、毎朝この道を彼女は自転車で止まらずに突っ切る。菫斗が住む街とは全く似つかず、景色の移り変わりも多い。


 錆び付いた建物やシャッターが閉まった店はあまり見かける事もない。

 雪椛は細く入り組んだ道を進み、目印にしていた自販売機の数を呟きながら角を曲がる。


 学校に残る菫斗は図書館へ向かっていた。普段から手に持っている英単語帳も無く、対する生徒の間を縫って廊下を進む。


 図書館に入ると部屋中を見回し、最後に視線を向けた「神話」のジャンルの棚に着くと一冊ずつ開き始めた。

 中には多くの天使や神といった空想の人物のイラストがあり、硬い文章で説明も加えられている。

パラパラと捲っていき、菫斗がようやく手を止めたページには二つの大きな羽をもつ女性が描かれていて、折り目の多い服装や髪型がよく似ていた。

 さらにページを捲ると、色が違った別のイラストが描かれていて、菫斗が見た純白の衣装を纏い髪の毛は金色。

 そして何より、両腕を突き上げているポーズだった。

 「あの人形は多分……このウリエルっていうやつか」

 黒く分厚いカーテンから漏れる夕日に照らされる、無数の埃を引き連れ菫斗は勢いよく本棚に戻した。宙に浮かび上がった埃はゆっくりと時間をかけて落ちていく。


 雪椛は休んだ光橘の家の玄関へ上がり、全身を包む涼しさを感じながら二階の部屋に向かう。日傘では防げない熱風は衣服を貫通し、汗腺をくたびれさせる。あれほど気にしていた前髪も額にべったりとくっついたが、気にもせず雪椛はクーラーの吹き出し口へ近づく。


 「あー……外暑かったぁ。本当にこれ異常気象だって。雨からの猛暑だもん」

 「よく風邪ひいている人がいる家に上がったね」

 上下薄い水色のスウェット姿で光橘はベッドに座る。


 「風邪って本当だったんだね、嘘かと思っていたよ」

 「そんな事で嘘つかないし、微熱だけどね。昨日の夜、窓開けながら寝ちゃって起きたら雨で服がびしょびしょで」

 雪椛はクーラーの前から移動し椅子に座ると、机の上に置いてあったシワのよったノートを手に取り「これも雨で濡れたの?」とベッドにいる光橘に見せた。


 ノートの端の方に三つほど滴が広がったような斑点があり、長時間降っていた雨にしては小規模すぎる。

 「いや、それは涙。蒸留させて塩として売ったら数百万はいくね」

 突飛な解答に雪椛は首を傾げる。ページを捲るが裏には貫通していない。


 「……。」気詰まりな空気をクーラーの風が飛ばす事なく、数秒後に光橘は事情を話し始めた。

 「初めて菫斗と電話してたんだけど素っ気なくて。流石に普段の私は明るいけどさ、昨日の夜だけは私も同じ天気だったね。雨。」


 「いつも言ってるけど、その変な言葉選びやめな」


 「〝らしさ〟って言ってくれない? 〝私らしさ〟なのこれは」

 雪椛はベッドの上にクッションを置き、その上にゆっくりと腰掛ける。

 「でも今日の菫斗はなんか変な人だったよ。ソワソワして落ち着きなかった」

 「何それ? 私がいなかったから?」と頬を赤らめる光橘。窓外に目を向けながら数秒、雪椛は悩む素振りをしてゆっくりと頷く。


 分かりやすく、そんな愛らしい反応に彼女はクスッと笑みをこぼす。

 「電話で何があったか知らないけど、今回は光橘の勝ちだったね」


 その後に光橘は雪椛に昨日の電話の内容、今後の展望などを話した。


 ノートの端についた涙の跡がまるで、笑い涙に思えるほど二人は声を上げて笑う。



3話へ続く!

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