43
キッチンテーブルに夕食が並び、夏実が浩に食べさせた頃、正太の足音が野崎家にどたどた響いた。
「ひ、ひろし、くん?」
懐かしい声へ浩は顔を向けた。
夏実が正太のご飯を茶碗に入れながら伝えた。
「お兄ちゃんと、もう一度絵を描くために、来たとよ」
正太は眉を八の字に寄せた。
「え、え、えを、かく? おいは、え、かかない、のに」
テーブルの上の麻婆豆腐を見つけた正太の目がハートになり、さっそく椅子に座って食べようとすると、夏実がその皿をさっと取り上げて言った。
「描かんなら、描かんでよかよ。だけど、最後にもう一回だけ、浩さんの絵を、手伝って、ね。だって、お兄ちゃんと、浩さん、本当の友だちなんでしょ?」
正太は逃げていく好物の皿を手で追いながらも、嬉しそうに言う。
「おいが、ひ、ひるの、ほし、みつけたら、おいと、ひろしくん、ほんとうの、ともたち、に、なる」
「そうよ、そうよ。二人でもう一度、一緒に絵を描いたら、きっとその星、見つけられるけん、一緒に描こうよ。あたしも手伝うから、きっと、うまくいく」
夏実は体をくねらせ、麻婆豆腐を追手から逃がす。
「だけど、おいは、かくの、やめた。みゃあのえ、いっぱいかいたから、みゃあ、しんだ。おいはもう、かかない、きめた」
と悲しそうに言いながらも、正太はごちそうをあきらめない。
夏実も手馴れた闘牛士のように華麗にかわす。
「今度の絵は、違うとよ。今度は、昔、殺された人の絵を描くの。ミャアの死を体験したから、お兄ちゃん、もっとすごい絵を描けるはずだし、描かなくちゃいけないの。ねえ、浩さん、今、目が見えなくなって、絵が描けなくて、困ってるでしょう? お兄ちゃん、友達が困ってるのに、見捨てるの? あたしたち、浩さんの目になって、絵を描くのを手伝ってあげなくちゃ」
正太はなおも首を振る。
「おいは、おいは、もう、え、かききらん。かききらん、あちゃあ」
正太の顔に夏実が手にしていた皿が押し当てられ、丸い顔が熱い肉豆腐にまみれた。
夏実の声が激変した。
「せからしかあ。世界で一番やさしいあたしも、もう我慢できないよ。お兄ちゃんから絵を取ったら、何が残るというと? ただの役立たずじゃないね。友だちを見捨てる薄情者になりたいとね? お兄ちゃん、言うこと聞かなかったら、毒蛇だらけの穴に放り込むからね」
正太は苦悩の表情を浮かべた。
「お、おいは、へ、へひ、すかん。まーほう、とーふ、すき。へひ、かむ。かえる、くう。へひ、すかん。まーほう、すき」
そう言いながら、顔に着いた麻婆豆腐を両手で集めて食べた。
夏実の怒りは噴火レベルに達した。
「あんたが入った蛇の穴に、スズメバチの巣も投げ込んでやるけん」
正太が夏実の世界で一番やさしい説得に屈して絵を描き始めたのは、それから一週間後のことだ。
正太と浩と夏実は奥の部屋にこもり、戦場で殺し殺される瞬間の人間を描く狂人と化した。
浩が夏実の手を借りて下絵を描き、正太が濃厚な色を叩きつけた。彼らには絵の中の人物のように、絶望の黒い血がどろどろ流れ、傷つけ、傷つき、泣き叫んだ。
「殺さなければ、殺される」
と浩が叫んだ。
彼の祖父が経験した絶叫だ。
「国を守るために、特攻で散るんだ」
と叫ぶ浩は、燃えて砕ける戦闘機の中にいた。
彼が車で谷底へ堕ちる時に経験した死の瞬間が、死にゆく人々を描く一筆ごとにフラッシュバックされた。そのたびに彼の精神は壊れ、重い汗を噴き出して震えた。
夜毎、夏実は彼を抱きしめて支えた。
正太の描く色彩も、信じられぬほど凄みを深めていた。愛猫の死を体験した正太の筆には、悲しみや怒りだけでなく、死にゆく者への熱い愛情も練り込まれていた。
「もうやめて・・」
と優が涙ながらに訴えた。
「あんたら、みんな、狂ってるじゃないの。今にも死にそうな顔してるじゃないの。みんな、病気だよ。こんなひどい絵を描いて、誰も喜ばんとに、なぜ描くと? 誰もこんな絵、家に飾ろうとせんでしょ? 売れるわけないよ。前に、ひどい非難を浴びせられたこと、忘れたと?」
夏実が畳にひざまずいて頭を下げた。
「ごめんね、優、あんたの気持ちはよく分かるけど・・」
血走った目が優を見つめた。
「でもね、あたしたち、売るためにこれを描いてるんじゃないの。今も、世界のどこかで戦争が起きて、罪なき人々が理不尽に殺し合ってるの。明日は我が身なのよ。たとえどんなに微力でも、あたしたち、どうしてもこれを描かなきゃいけないのよ。たとえ世間にどんな非難を浴びせられても、これを描かなきゃいけないの」
優も赤い目を剥いて叫んだ。
「だったら、なっちゃんと浩さんの、二人で描けばいいじゃない。わたしの夫を巻き込まんでよ」
浩も夏実の隣にひざまずいて訴えた。
「この絵は、きっと、世界中で、正太にしか描けないとよ。正太だって、今、新たにこの絵を描くことで、また一つ、殻を破ろうとしているよ」
優は首を振る。
「わたしには、その殻を破ったら、怪物になって、もう元の世界には戻れん、怖い人になる気がするとよ」
鬼の顔で優は正太の手を引き、連れ去っていった。
そんなことが幾度あっても、正太はその戦場に戻って来た。そして最前線で殺し合う狂気の目で、一筆一筆、命の絶叫を叩き込むのだ。
ある暑い日、縁側に浩と腰かけ、遥かな空を見上げながら正太が聞いた。
「お、おいは、また、みゃあの、え、かける、ように、なるのかな?」
「きっと、なるよ。そのために、今、こうして戦っているんだ。平和への祈りを込めて」
そう言って、浩は友の手を捜し、握った。
クマゼミの絶唱が、沸きあがる入道雲へ響いていた。
夏実が庭に出て、物干し竿の洗濯物を取り込みながら二人に言う。
「あんたら、いつまで休息しとると? 早よ続きを描いてしまわんね。ねえ、浩、今度こそ、最後の絵なんだよね?」
「え? ああ、たぶん・・」
と言いながら、浩は正太に手を引かれ、奥の部屋へ戻っていく。
「この前も、最後の絵って、言ったわ」
と夏実は独り言をぼやきながら、夕立匂う雲を見上げた。迫り来る積乱雲の隙間に、深い池のように青空が見え、黄色い星が一つ、微かに輝いていた。
きゃあきゃあ騒ぎながら夏実は家へ駆け上がり、洗濯物を放り出して、浩と正太の手をつかみ、縁側へ引き戻した。
「なっちゃん、とうした? とうした?」
正太の問いに、夏実は浩の手を取り、雲の隙間を指させた。
「あれ見て、ほら、見える?」
「ひ、ひるのほし?」
正太は目を凝らした。
浩も指す彼方へ見えない目を向けた。
やがて久しく失くしていた笑みが、彼の頬に浮かんだ。
「ああ、見える。見えるよ」
夏実と浩の指す上空には、怪物入道が巨大な手を広げ、無言で近づいていた。
昼の星 ピエレ @nozomi22
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます