42

 それから三年の月日が流れた。

 絵を描かなくなった野崎正太は、世間から忘れ去られようとしていた。


 その日、買い物袋を手に下げた夏実が家路を歩いていると、タクシーが一台追い越して行った。後部座席のサングラスの男がちらりと見えた。

 ゆっくり歩いていた夏実は、体をビクンとさせ、急に走り出していた。最後の角を曲がると、五十メートルほど先の野崎家の前でタクシーが停まった。夏実はいったん走るのをやめ、歩きながら注視した。

 タクシーから出た男は、白い杖を手にしていた。

「ああ」

 夏実の手から買い物袋が落ちた。中身がアスファルトに転げた。それでも夏実は振り返らず、再び駆け出していた。

 男は杖で玄関前の石段を探り、片足を引きずりながら昇った。それから手探りでチャイムへたどり、二回押した。

 家の中から返事はなかったが、背中に忘れもしない足音を聞いた。振り返った彼の胸に、熱い息吹が飛び込み、むしゃぶりついた。故郷の草原のような甘い香が、男の心にぱあっと咲いた。女は胸の高鳴りから顔を離し、両拳でその胸をぽかぽか叩いた。

 男は中学生の頃、まだ小学生だった彼女に同じように叩かれたことを思い出していた。むせび泣く声がその胸に痛かった。

「遅すぎるよお。遅すぎるよお。ばかあ、ばかあ・・」

「夏実」

 と男は呼んだ。

「あたし、あんたが来てくれたら、あんたのために、何だってしようと決めてたとよ。だけど、三年たっても、音沙汰なしやけん、今度会ったら、あんたを殺して、あたしも死ぬって決心したとよ。あんた、覚悟を決めて、ここへ来たのよね?」

 男はサングラスの奥の見えない目で夏実を見つめた。

「死ぬ前に、絵を、残したくて、来た。父さんが描いた、あの絵を」

 夏実は男の手を取って自分の頬に当て、うんうんうなずいた。

「そうよ。あんたは、残さなくちゃ。あの絵を、もう一度、あたしたちで、やり直しましょう」

「正太は? 正太、今、絵を描いていないって、聞いたけど・・」

「兄ちゃんは、どこか、散歩に行ってる。ミャアが死んでから、絵を描かんようになって・・でも、残ってたミャアの絵がすごい値で売れたから、生活には困ってないの。ねえ、家に入ろう。夕飯、作るけん、あっ」

 買い物袋を落としてきたことに、夏実はようやく気付いた。










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