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 野崎正太の絵の人気は復活し、特に雌のキジトラ猫の生命力溢れる絵は、高山信雄の海外での宣伝によって世界中から買い手が殺到し、値が吊り上がっていった。正太に殺人的な量の絵の注文が圧し掛かった。

 田口家に泊まり込んで、一か月ほど浩と彼の母を説得していた夏実も、正太のマネージャーとして、博多へ戻らなくてはならなくなった。

「ちゃんとご飯食べて、運動もして、元気でいてね」

 そう言って、夏実は田口家を後にした。

 浩は何も言わなかった。

『もう二度と来るな』

 と強がることもできなかった。



 ミャアは、臆病な猫だ。

 だから危険な世の中を生き延びてこれた。

 残酷な子供の矢からも逃げたし、冷酷な大人の毒入り団子も食べなかった。

 この世で、味方は正太と夏実とその父親の真一だけだったし、彼ら以外は敵だった。

 ミャアの縄張りは、野崎家の屋内と、屋根の上と、庭だった。たまに床下に潜ることもあった。野崎家の敷地内では、たいてい安心だ。まれに雄猫が交尾を求めて侵入して来るが、不妊手術をしている彼女にとって、それは縄張りを死守する交戦の時だった。いざとなると狂暴になる体の大きなキジトラ猫のミャアは、猫相手の戦には負けなかった。だから痛い目にあった雄猫たちは、野崎家には近づかなくなった。

 運命のその日も、ミャアは心地よい秋風にまみれ、のんびりしていた。

 夢見心地が、最高の幸せだった。

 夢の中で、何かが近づく音が大地に響いた。何か巨大なものが迫るのを直感して、とっさに身構えた。逃げなくちゃと、身をひるがえそうとするが、恐怖で一瞬体が凍りついた。その瞬間、横腹から背中へと、何か恐ろしい物が彼女の体を巻き込んだ。あまりもの劇痛に、叫び声さえもらせなかった。絶対の恐怖が内臓を圧し潰して過ぎた。

「あれっ? 何か踏んだみたい」

 バックで車を庭に駐車させた優が、運転席から出て、車の下を覗き込んだ。そして悲鳴をあげ、膝から崩れた。

 助手席から出てきた正太も、後輪の近くにいるミャアを見つけた。

「ミャア」

 と正太は呼んで、愛猫へ手を差しのべた。

 ミャアは体が破裂する痛みの中で立ち上がり、最後の力を振り絞って人間たちの手を逃れ、家と塀の間へフラフラ駆けた。そして秘密の穴から床下へ潜った。

「ミャア、ミャア・・」

 と正太の呼ぶ声が耳鳴りのように聞こえる。

 ミャアはそれに応えて、鳴こうとしたが、声が出ない。

 優の泣声も聞こえた。

 なぜ自分はここへ逃げたのだ・・正太の膝が恋しいのに・・やさしい胸が恋しいのに・・なぜ・・と思うが、分からない。ただ本能で彼女だけの秘密の隠れ家へ来ていたのだ。

 体の中がぐちゃぐちゃに潰れていて、口から、鼻から、苦しい液体がだらだら出ている。

 自分はいったいどんな悪さをしてこんな目にあったのだろう・・

 経験したことのない痛みの中で、最期にそう考えたが、何も分からないまま意識が途切れた。


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