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 その夜、田口家で、浩の他に彼の母の桂子、妹の麻美と一緒に、夏実は夕食を食べた。

 ごちそうさま、の代わりに、夏実は両手を畳に着けて頭を下げた。

「お母さん、麻美さん、突然のことで本当に申し訳ないのですが、浩さんを、あたしにください」

 桂子はキョトンと座していた。

 麻美がお茶を注ぎながら、不思議そうに聞いた。

「それって、まるで、男の人が、恋人のお父さんに、お嫁に下さいって、言ってるように聞こえたけど?」

 夏実は赤らむ顔を上げ、片手を横に振った。

「まさかあ、そんなんじゃないです・・けど、似たようなものかも」

「やめろよ。勝手に何を言いだすと?」

 と怒る兄の肩を、麻美が「まあまあ」と押さえながら、興味津々の目を夏実に向けた。

「兄には、その気はないようですけど、もし、こんな兄と結婚したいとおっしゃるのなら、わたしどもは、のしをそえてでも、いえ、包装して金のリボンを着けてでも、差し上げたいです。でも、それは、疫病神と貧乏神も、一緒に引き受けるってことですよ。絶対後悔します」

 夏実は首を振った。

「だから、結婚とか、そんなんじゃないです。この人は、今、生きる気持ちを失っています。ここにいたら、また、自ら命を捨てるかもしれません。だけど、あたしと一緒に生きていけば、きっと何でも乗り越えられると思うんです」

「それは、なぜ?」

 と問う麻美の瞳は、月夜に獲物を見つけた猫のよう。

「この人が、あたしを、好きだから」

「こいつなんか、好かん好かん」

 と反論する浩の頭を、麻美はコツンと叩いた。

「お兄ちゃんは、黙っとらんね。今、大事な話をしとるとかけん」

「おれの話やろうもん」

「自殺なんかして、わたしたちに心配ばかりかけてるお兄ちゃんに、何も言う資格なんてなかと」

 麻美は、兄の口を手で塞ぐようにして、また夏実に熱い目を注いだ。

 夏実は浩を見つめて言う。

「じゃあ、言い方を変えます。あたしが、この人を、愛しているからです」

 麻美の月夜の猫の目が、さらに丸くなった。

「気は確かね? ほんとに疫病神と貧乏神を、背負い込む気なの? こんな体になって、祟り神かもしれんとよ。佑子ちゃんだって、もう、心が壊れちゃったのに」

「その佑子さんも、浩さんの幸せを願って、あたしをここに連れて来てくださったとです。浩さんには、この世でやり残した、大事なことがあるとです。この人が、将来、この国の誰かの、あるいは、どこかの国の誰かの、命を救う力の一つになるかもしれません。もちろん、そうならないかもしれません。でも、何もしなかっら・・・あたしたち一人一人が、たとえ一人では微力でも、何もしなかったら・・・この国は、あるいはどこかの国は、再び過去の過ちを繰り返すかもしれないとです」

 麻美の目に、気狂いを見るような疑惑の色が浮かんだ。

「何、言ってるのか、理解できんとですけど」

 夏実は狂おしい目で麻美を見つめた。

「うまく説明できなくて、ごめんなさい。だけど、この人には分かるとです。だって、この人があたしに言ったことだから。この人の、やらなくちゃいけないことを実現できるのは、あたしと、あたしのお兄ちゃんだけなんです。だから、この人には、あたしとお兄ちゃんが必要だし、あたしとお兄ちゃんも、この人が必要なんです」

「よく分からないけど、あんたらに必要とされてるのなら、こんなお兄ちゃんにも居場所があるってことやけん、あたしは、応援するよ」

 そう麻美が言うと、母の桂子が割って入った。

「あんた、何言うよっと? 浩はこんな体だし、外へ出せるわけないでしょう? 浩はわたしの息子だから、わたしが面倒みるよ」

 訴えるような母の涙目を、夏実は懸命に見返し、首を振った。

「お母さん、浩さんは、目が見えなくなって、一人では絵が描けなくなっても、立派な画家なんです。この人の絵を、あたしとお兄ちゃんとでチームになって、もう一度、必ず完成させます。そうしなくちゃならんとです。この世の、誰かを救うかもしれない絵を、あたしたち、生み出さなきゃならんとです」

 夏実の必死を、浩が否定した。

「おれたちの絵を、この国の大勢が非難したじゃないか。それで、正太の絵が売れなくなって、夏実はおれのこと、役立たず、って言った」

「夏実さん、そんなこと言ったの?」

 と麻美が言うと、浩は彼女にもぼやいた。

「どうせ、おれは、疫病神で、貧乏神で、祟り神なんだから」

 夏実が声に熱情を込めて言う。

「あん時は、あんたの絵に対する信念が理解できなくて、ごめんなさい。でも、今のあたしは、違う。あたし、あの絵が、本物だったって、分かる。だから、もう一度、完成させなきゃって、真剣に考えてる。信雄さんだって、アメリカで宣伝活動してくれるって言ってくれてる。だから、ね、あたしたち、チームで手を取り合って活動しよう。ほら、あんた、何度か、お兄ちゃんに言ったでしょう・・・昼の星を見つけたら、あんたとお兄ちゃんは、本当の友だちになれるって。あたし、ちっとも理解できなかったけど、今は、あたしも、心の底からそれを求めてるの。あたしたち、一緒にその星を探そうよ。だって、その星は、目に見えなくても、必ずあるとでしょう? あんた、そう言ったよね? 目が見えなくなったあんただからこそ、あたしたち以上に、その星が見えるとじゃないね? あたしたち、もう一度、その希望の光を、探さなくちゃ。ね?」

 浩は震えるように首を振った。

『き、き、きえろう、きえろう』

 と叫ぶ正太の声が、耳奥に響いていた。




















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