39

 まただ。

 もう何度目、いや、何十回目だろう。

 今日も、彼の乗った車は、深い谷底へ回転しながら転落していった。

 悲鳴が車内に満ちていた。

 崖の途中にぶつかった衝撃で、シートベルトをしていない彼は、窓ガラスの割れたフロントから飛び出していた。

 堕ちて行ったのは、灼熱炎の地獄だ。身も心も、恐怖の炎に包まれ、長い間堕ち続けた。


 気がつくと、彼は久留米の実家にいた。母と妹の他に、失踪した父もいて、一緒に食事をしていた。

 笑いがなくてもよかった。

 ケンカしててもよかった。

「何がそげん嬉しいと?」

 と父が問う。

 彼はただ微笑むだけ。

 いつまでもこの幸せが続くと思っていた。

 だけど、食事中、突然、町にサイレンが鳴り響いた。

 何ごとかと窓の外を見ると、空の彼方から銀に光る何かが、みるみる近づいて来る。閃光が走り、爆音で家がゆっさゆっさ揺れた。

 彼は食べたものを吐き出していた。体じゅうから、黒い汗が噴き出していた。

 次の轟音とともに家が砕け、家具と一緒に体が宙に浮いていた。叩きつけられ、天井が落ちてきた。とっさに両腕で頭を守った。

 気がつくと、周囲は火の海だ。

 家の残骸に埋もれている父を近くに見つけ、聞いた。

「お父さん、これは、何ね?」

「戦争たい。殺さなきゃ、殺されるとたい」

 父は血を吐き、血の涙を流した。

 彼は砕けた木材を取り除き、父を救おうとした。

 だけど父の首から下は完全に潰れていた。

「あああ」

 わずかな希望を求め、母と妹を捜した。

 やがて、家具と一緒に燃え、黒焦げになりつつある二人を見た。

 繰り返し続く爆音に、大地はゆがみながら揺れた。

 発狂の泣き声や、絶望の叫び声が、燃える町に響いていた。

 彼の命も、あとわずかだと分かっていた。世界が暗くなり、もう何も見えなくなった。

「夏実、夏実・・」

 最後の希望へ手を差しのべた。


 ベッドに横たわる浩は、目を開いて天井を見ているようだった。

「眠ってるとよ」

 と佑子は教えた。

「目を開けてるよ」

 と夏実は言った。

 佑子は浩の目を指し、

「両目とも、義眼なの」

「ああ」

「本物みたいでしょ? 両目とも、潰れてしまったの、知ってるでしょ?」

「ええ」

 夏実は悲しい目でうなずきながら、濡れタオルで男の顔や首の汗を拭いた。

「浩さん、動けるようになったのよね?」

「三か月くらい前から、手足を動かせるようになって、病院のリハビリで、最近やっと杖をついて歩けるようになったと。それで、退院して、家で暮らし始めたとやけど・・」

 言葉を詰まらせる佑子の疲れ切った顔を夏実は見つめ、それから浩に目を戻した。

 浩も頬がこけていた。

「夏実、夏実・・」

 と浩が呼んだ。

「あ、目覚めたと?」

 そう夏実は呼びかけたが、浩の眼は天井を向いたままだ。

 佑子が悲しそうに言う。

「言ったでしょ? 浩さん、うわ言で、あんたを何度も呼んでるって」

 夏実は両手を差し出し、彼の汗ばんだ右手を握らずにはいられなかった。

「ここにいるよ、浩。あたし、ずっと、ここにいるけんね」

「夏実、夏実・・」

 心を込めて指を絡めた。

「うん、夏実だよ。浩、あたし、あんたが生きているだけで、幸せなんだからね。ねえ、一緒に、生きていこ。ね、生きていこ。あたし、あんたのこの手の温もり、ずっと忘れんけん、あんたも、あたしのこの温もりを、忘れんで」

 指にぎゅっと祈りを込めた時、浩の顔が夏実の方を向いた。

 浩の指にも、力が感じられた。

「えっ? 浩、分かるとね? あたしが、分かると?」

 浩の顔が左右に揺れた。

「何で? 何でおまえが、ここにいる?」

「あんたを、迎えに来たとよ。あんたがいないと、あたしも、お兄ちゃんも、困るとやけんね」

「ああ、本当に夏実の声だ。おれ、まだ、夢を見てると?」

 夏実は、右手だけ手を離し、青年の頬をつねった。

「夢じゃないよ。ほら」

「あ痛あ、何すっと?」

「愛情表現だよ」

「おれは、こんな愛情表現、好かん」

「そうね? じゃあ、これは?」

 夏実は浩の唇に、一瞬のキスをした。

「い、今、何した?」

 瘦せこけた頬に、生きる力が色づいた。

「だから、愛情表現だよ」

「よう分からんかったけん、もういっぺん、して」

「嫌よ。ここには、佑子さんもいるとよ。あれっ? 佑子さん、どこ行ったのやろ?」

 いつのまにか佑子は部屋を出ていた。

「減るもんじゃないやろ」

「減るもんたい。あんたにゃ、もったいなか」

「ケチかあ。もう一回してくれたら、おれが百倍にして返してあげるとに」

「うわあ、こいつ、キス魔だ」

「キス魔になりたかあ。おれは、夏実以外とキスせんけん、人生最後のキスを、ちょうだい」

「人生最後って、どういう意味よ?」

 浩は自分の義眼を指した。

「おれは、もう、絵が描けん。すべてを捨てて絵描きになったおれが、もう、生きてる意味なんてないじゃないか」

「はあ? 佑子さんに聞いたけど、あんた、自殺したってね? ふざけんでよ」

「ふざけて自殺したりしないよ」

 夏実は浩から離れ、腕組みをし、怒りの声を浴びせた。

「ふざけているよ。あんたの絵に対する情熱は、その程度だったと? あんたがお兄ちゃんに描かせた戦争の絵は、もう、この世には存在しないとよ。目が見えないくらい、何ね? あんたがあの絵に命を懸けてたのなら、どんな境遇に陥ったとしても、何度でも、何度失敗しても、また挑戦しないといけないとじゃない? お兄ちゃんは、すっかり絵の内容を忘れちゃってるから、一人では描けないとよ。でも、お兄ちゃんは、あんたのことを信じてるけん、あんたの言うことだったら、あんたが考える以上に描くことができる。ねえ、あたしたち、もう一度、チームを組もうよ」

 浩は首を振った。

「目の見えない絵描きなんて、お荷物にしかならん」

「あたしがあんたの目になるけん、大丈夫よ。逆に目が見えなくなって、かえって渇望する絵もあるとじゃない?」

「かつぼう?」

「うまく言えんけど、あんたの心が、追い求めずにいられない絵があるとじゃないね? 盲目のあんたと、バカのお兄ちゃんと、聡明なあたしの三人とで、あたしたち、世界一の絵を創造するチームになれるよ。信雄さんだって、協力して、アメリカであの絵を広めてくれるって言ってるし・・だから、ねえ、希望を捨てちゃだめ。あたしね、あんたが目が見えなくなって、本当は嬉しいくらいよ。ウフフッて、心で笑ってるの。だって、あんたには、一番きれいなあたしの記憶しかないけん。あたしが、しわくちゃのババアになっても、あんた、きれいなあたしの姿しか見えてないけん」

 夏実が笑い声をあげても、浩の声は暗いままだった。

「どっちみち、おれは、長生きできん。崖から落ちて、何本の骨を折ってと思う? 生きてるのが、奇跡だと言われた。まだあちこち痛むし、いつ死んでもおかしくないとよ。あちゃあ、何すっと?」

 夏実が悲鳴をあげたのは、夏実の両手が彼の頬をつねったからだ。

「死んだら許さん。あの時、あたしがどれだけ泣いたか、知ってると? そしてあれから、あたしがどれだけ泣いたか、知らんでしょう? あたしの涙で、世界の七つの海を八つに変えるくらい泣いたとやけんね。その上あんたが死んだら、世界はあたしの涙の洪水で、滅ぶんだから」

 夏実の指を振り払って、浩は抗議した。

「だからって、何でこんなことするの?」

「これは、そう、愛情表現よ」

「はあ? だったら、おれにも、夏実への愛情表現を、させてよ」

 浩の赤い頬を見て、夏実は首を振った。

「嫌だよ。あんた、変なことするでしょ?」

「変なことなんか、せんけん」

「ほんとね?」

「おれの気持ちを、受け取って」

 浩の両手が、夏実の方へそおっと伸びた。

 夏実は一瞬身を引いたが、ゆっくり前に動いた。ナチュラルウエーブの髪に指が入り、やさしく撫ぜた。

「あっ」

 とか細い声がもれた。

 男の指が耳に触れたのだ。

 燃えだした頬に手の平が触れ、男の顔が近づいてくるのに、動けなくなった。

 涙溢れそうな目を閉じて、すべてを許した瞬間、両頬に異常な痛みが食い込んだ。

「痛い。何すっと?」

 頬をつねる浩を、夏実は涙目で睨みつけて訴える。

「嘘つき。変なことせんって、言ったでしょ」

「変なことじゃなか。愛情表現のお返しだあ」

 夏実の目に怒りが燃えた。

「愛情表現なら、負けるもんかあ」

 笑いを浮かべる頬に、再び飢えた指を伸ばした。

 








 











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