36

 浩はなおも燃え尽き砕ける墜落の悪夢にいた。

 恐怖が心臓をわしづかみ、叫び声でぐるぐる回る狂気から逃れようとしていた。

『いつまでおれ、堕ち続けるんだ? ちくしょう、真っ暗で、何も見えねえ。これが、死ぬということ? おれ、もう、死んだのか? おれは今、地獄へ堕ちているのか?』

 どれくらい経っただろう。ふいに、闇の底から、自分を呼ぶ声が聞こえた。

「ひーろーしー、どこー? あたしは、ここよー」

 恋しい声だ。

 凍える闇に唯一灯された温かい光を彼は感じた。

「ひーろーしー、生きているなら、返事してよお。あたしよー、夏実よー。あんたが、好きなのー。心の底から、好きなのよお。こんなこと言うの、初めてなんだからあ。だから、ひろしー、返事してえ」

 浩も夏実を呼ぼうとした。だけど、声が出ない。何も見えないし、体も動かない。

 やがて夏実の泣声が沸きあがった。

 浩は必死で体を動かした。そして泣声のする下の方へ首を回し、目を凝らした。やはり何も見えない。

 出ない声で絶叫した。

『なつみー、なつみー』

 夏実は泣声を止めて、周りを見回した。

「ああ、浩? どこにおると? どこにおるとお?」

 闇の壁のすぐ向こうで夏実の声がする。

『おれは、ここにいる。ここにいるよお』

 どんなに叫んでも、声にならない。

 それでも夏実は何か感じ取ったのか、闇へ祈りの手を差しのべる。

「浩? 浩?」

 浩は動かない体を死に物狂いでよじり、かすれ声を絞り出した。

「なつみー」

「え?」

 夏実の耳に、本当に浩の声が届いた

 耳をとがらせ、瞳孔を最大限開いた。

 木の枝が揺れる音がした。

 頭上だ。

 上を向いた瞬間、何か落ちてくる気配に体毛が逆立った。 

「キャッ」

 反射的に逃げたが、「ダメえ」と金切り声をあげ、すぐに身をひるがえし、闇のかたまりを受け止めようとした。どすっと胸にそれはぶつかり、夏実を下にして草に叩きつけられ、坂を滑り落ちた。草に頭を打ちつけられた夏実は、意識が飛びかけたが、その人間を抱きしめて離さなかった。

「あんた、浩ね? 浩ね?」

 浩はその問いかけを確かに聞いた。だけど何も見えない。

『何だ、これ?』

 顔を動かすと、何か柔らかいものに押し付けられている。耳を当てると、ボコボコボコボコ、音が聞こえる。

『おれは、夢を見てるの? なら、生きてるのか? これは、生命の音? 今、夏実がおれを呼んだぞ。もしかして、これ、夏実の鼓動か? だとしたら、おれ、今、夏実の胸に顔を当ててる?』

 耳元で、また夏実の声がする。

「ねえ、浩、生きてるよね? ねえ?」

 夏実の指が首に触れた。

 脈を感じたのか、

「ああ、よかったあ。生きてる。生きてるよ」

 そう喜びをもらして、夏実は浩の髪に強く唇を押しつけた。

 浩は思わず声を出していた。

「何、これ? 夏実、今、何を?」

「え? あんた、気がついたと? ああ、やっぱり、浩なのね。これがあたしたちの、運命なの?」

 夏実の胸の上で、浩はぐったりしたまま言う。

「おれは、気がついてない。何も見えんし、何も聞こえんし、心臓も止まってる」

「あんた、何言いだすと?」

「夏実、今、おれにキスしただろ? でも、昔話を思い出してよ。千年の昔から、唇にキスしないと、王子さまは目覚めないんだ」

「はあ? そんな昔話、聞いたことないよ。だいたい、あんたが王子さまって、千年早いわ」

「千年でも、万年でも、飛び超えて、おれの胸に、赤い血を流させてよ」

 浩は満身創痍の腕を夏実の肩に回し、夏実の声がした方へ、ゆっくり体を進め、顔を近づけた。

 夏実は強い電流を受けたようにビクッとした後、動けなくなった。

 唇と唇が近づき、捜し合い、ついに触れ合った。深い闇に隠れ、二人は永遠の熱情の中でゆっくり回った。甘い柔らかさに体が溶け、夢中で唇を吸った・・・・・

 異常に気づいた夏実が、浩を揺すった。

「え? えっ? 浩、どうした? ええっ? ばかあ、あたしの初めてのキスなのに、死なんでよ。ねえ? ねえ?」

 夏実は上に乗ってる浩を、体を入れ替え、仰向けに寝かせた。 

「浩、あたしに、こんな罪を犯して、死んだら許さんけんねえ」

 男の上に体を重ね、全身で浩をさすった。

「何としても、あんたと生きるから・・たとえ誰もがあんたを非難したとしても、あたしだけは、あんたの絶対の味方で、ずっと、ずっと、生きるから・・だから、死なないでえ・・死なせるもんか・・」

 自分の血潮を全部男に注ぎ込むように、夏実は何度も口に息を吹き込み、体を擦りつけ続けた。









  










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