35

 月光が樹々の隙間に見え隠れする車道を、夏実は下りながらつぶやいていた。

「ああ、やっぱり、浩、あんたなの? だって、他に考えつかないじゃない。そうだとしたら、何てことしでかしたと。あたしのため? あたしを救うため?」

 車のライトが見え、坂道を上ってきた。

 夏実は道の真ん中で両手を振った。

 急停車したのは、軽トラックのようだ。

 運転席の窓が開き、男が不審げに聞く。

「あんた、こげんとこで、何しとる?」

 声から推測して、老人のようだ。

「すいません。警察を呼んでくれませんか。あたし、携帯を家に置いて来ちゃって」

 と夏実は頼んだ。

「警察? 何事ね?」

「人が乗った車が、山道から谷底へ転落したとです。ああ、だから、救急車も、呼んでください」

 男は驚きの声を上げた。

「嘘やろ? とにかく、早よ乗りんさい」

 夏実は両手と首を振った。

「あたしは、捜さないかん人がおるけん、乗れんとです。どうか、警察と、救急車を、よろしくお願いします」

 夏実は一人、闇の底へ下って行った。しばらく車道を下ったが、かなり遠回りだ。

「ああ、あたしが行かなくちゃ。どうしても、行かなくちゃ」

 意を決し、道なき藪へ突入した。

「蛇さんも、ムカデさんも、こんな寒いから、いるはずないよね? 幽霊さんは、たくさんいるかも、だけど、咬みついたりしないよね? ああ、浩、あんたのせいで、あたし、靴も履いてない。ちくしょう、眠たくなってきちゃった。でも、こんなとこで眠ったら、それこそ幽霊さんに食べられちゃうよお」

 半泣きで、悪夢のような闇を下り続けた。

 靴下がボロボロになった時、夏実は下方の谷間に噴き上がる炎を見た。

「あ、何? ああ、浩・・」

 そこを目指し、駆け下りた。

 草に足を滑らせ、転び、また走り、つまずいて、転がり落ちた。肘も膝も擦りむいたが、暗くて血も見えないし、気にせず谷まで駆け下りた。もう炎はすぐ下だ。

「浩、浩、うわっ」

 最後に足を滑らせて落ちると、水しぶきが上がった。

「きゃあ、何これ? 川?」

 驚いて手足をバタつかせた。立ち上がると、水深は膝までしかない。

 すぐ目の前の炎が、辺りを明るくしていた。

 燃えているのは、中洲の岩に横向きに挟まる大破したワゴン車だ。

「浩・・」

 近寄ろうとすると、爆音とともに炎が広がり、夏実はとっさに顔を背け、水流に突っ伏した。

「終わりじゃない。終わりじゃないよ、浩」

 すぐに立ち上がって、川の水を両手ですくい、炎へ投げつけた。壊れかけた機械のように、何度も、何度も・・・・・・

 炎の勢いが小さくなり、夏実は進み出て、車の中を覗き込んだ。

 兄の絵の残骸が、炭になって、赤く燃えている。運転席に巨漢の遺体が、後部座席に中肉中背の遺体が、一体ずつあり、どちらも黒焦げだ。

「ねえ、あんた、浩なの?」

 後部座席の遺体を凝視した。左の手首に金属の腕時計が見えた。

「あれは、秀雄さんの高級時計、よね?」

 車の中に、他の遺体は見いだせない。

 背を向け、落ちてきただろう山の斜面を見つめた。

「この闇の中に、きっと、あんたはいる。だって、あんな車の落ち方、あんたの仕業以外、考えられんけん」

 月影がおぼろに揺れる浅い川を渡って、夏実は草木の斜面を昇ろうとした。

「キャア」

 すぐに何かにつまずき、悲鳴をあげて転んだ。

 四つん這いで闇に目を凝らし、つまずいたものを手で触れ、確かめた。

「ああ、浩・・」

 うつぶせの人間だと気づき、心臓の裏側に耳を押し当てた。

 次に、頸動脈を診ようと、指の腹を当てた。

「ああ、何でこんなに冷たいと? 何で、こんな、血生臭いと? ばかあ、ばかあ・・」

 夏実は男の背を拳でポカポカ叩いた。

「あんた、何でかってに死んでるとよ? あたしは、どうすりゃいいと? お兄ちゃんの絵、全部焼けちゃったのに。だからねえ、また一緒に描き直さないとだめでしょ? ねえ、早よ、起きんね。また一緒に、もっといい絵を描こうよ。うえーん・・」

 泣きながら、男の髪をつかんだ。だけどうまくつかめない。

「あ、あれっ?」

 涙をぬぐい、唇を噛んで、髪をまさぐった。

「あんた、こんな、髪、短くて、硬かったっけ?」

 もう一度首を触った。

「太すぎる・・・あんた、誰?」

 全身を触ると、身の丈二メートル近い大男だ。

 その死体から離れ、夏実は草を搔き分け昇った。すぐに大きな樹が並ぶ場所に当たり、その先は、急勾配過ぎて、草が滑って昇れなくなった。

 樹木の根元にへたり込み、声を張りあげた。

「ひーろーしー、どこー? あたしは、ここよー」

 耳を澄ましても、誰も応えない。

 唯一の救いの月光も、西の山頂に隠れようとしている。

「ひーろーしー、生きてるなら、返事してよお。あたしよー、夏実よー、あんたが、好きなのー。心の底から、好きなのよお。こんなこと言うの、初めてなんだからあ。だから、ひろしー、返事してえ」」

 深い闇の静寂の底へ夏実は堕ちて行く。泣き声が彼女を突き破って溢れ出た。

 すると、彼女がもたれる樹木の枝に引っかかっている青年の体が、ひくひく反応した。








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