34

 大破した車は、谷底の浅い川の大きな岩の間に、横向きに止まっていた。月光がそれを冷たく照らしていた。

 車体はゴムでできていたかのようにグニャグニャに曲がり、窓ガラスはほぼ消失していた。下側の運転席の潰れた鉄に挟まれた男の割れた頭から、暗い血が大量に流れていた。その死体の上に乗った男は、なおも地獄に落ちていく回転の途中にいるのか、ピクピク手足を動かしていた。

 双子や牡牛、犬たちやオリオンが時空を超え、天空高く旅した時、その男の目が恐怖から飛び出るようにバッと見開いた。

「何だ? ぼくは、まだ、生きてるのか?」

 闇の底でつぶやいた。

 小川のせせらぎが耳に入ってきた。エンジンの音は聞こえない。

「ん? 何だ、この匂いは? ガソリンがもれているのか? 何でこんなにオイル臭い? ん? これは?」

 手探りでグローブボックスを開き、懐中電灯を取り出した。ライトを下に向けた一瞬後、「ひっ」ともらして、電灯を落としてしまった。頭が潰れた野田の上に彼は乗っていたのだ。

「車が横倒しになってるのか・・」

 飛び出した目とおぞましい量の血を照らす電灯を拾い上げ、ぶるぶる震える手でシートベルトを外した。そしてひいひい呻きながら、後席へと移動した。

 後席にも荷室にも、人はいなくて、正太の絵が散乱している。

「何だあ?」

 動くと腹部が異常に痛むので、上着をめくり、そこへライトを当てた。シャツが半分赤黒く染まっていて、破れた箇所から、なおも生血が流れ出ている。

「ちくしょう、何が腹を裂いた? 何だ、この血の量は? ぼくは、もう、死ぬのか?」

 震えるライトが、目の前の板を照らすと、

「うわあ」

 と彼は発し、縦になったシートに背中をぶつけていた。

 死神の気配が背筋を凍らせたのだ。

 いや、彼の前に浮かび上がったのは、死神を目の当たりにした恐怖にゆがむ顔だった。照らされたのは、正太が描いた絵だ。

 絶叫するその人物は、男のようでもあり、女にも見えた。黄色い顔に紫の目が見開き、重大な何かを訴えていた。その額に、今、まさに銃弾がめり込んでいるところだった。こめかみと首にも、別の銃弾が迫っていた。それを防ごうと、手のひらを弱弱しく上げている。その人物が中央に描かれ、画面の半分を占めていた。その人のすぐ左からは、子供の引き裂かれた上半身が、潰れた顔を逆さにして、爆風でこちらへ飛び出そうとしていた。その子も性別は分からず、変な方向に折れ曲がった片手には、棒切れが握られている。踏みつぶされた昆虫に似た顔も、腹からはみ出たはらわたも、生血がほとばしっていた。子供の下には血まみれの死体がいくつも重なり、子供の奥には爆撃で飛び散る肉片の花火が描かれていた。画面の右側では、日本兵と思われる男が、誰かを銃剣で突き刺していた。殺人者も被害者も、苦悩で顔がひん曲がっていた。いや、体じゅうひん曲がっていた。いや、その向うでも殺りくが行われているのだが、その殺人者の顔だけは違っていた。まるで殺しが美徳か快楽であるかのように、嬉々として笑っているのだ。悪魔の笑い声が聞こえた。

「ああ、これは、ぼくなのか?」

 絵に引き込まれる男は、なぜかそう問いかけていた。

 画面の左奥には戦車が火を放ち、たくさんの兵士が逃げ惑う人々を殺しながらこちらへ迫っていた。

「くそがあ、くそがあ・・」

 男はいらだった声を発し、もう一度中央の死ぬ瞬間の人間を見つめた。

 問答無用で理不尽に終わらねばならぬ人生。それは、絵を見つめる男も同じなのだ。もう絶対的に血が足りなくなると悟っていたのだ。内臓が破損した絶対的な劇痛が、彼の心臓をも止めようとしていた。全身からウジのような汗もにじみ出ている。

「こんなはずじゃなかったのに」

 と絵の中の人間がもらした。

「こんなはずじゃなかったのに」

 と数知れぬ人間たちが狂乱していた。

 いや、それは絵を見る男の心の奥底から発せられた叫びだ。怒りと悲しみが渦巻く中で、これまでの人生が脳裏を駆け巡った。すると絵の中の人物たちの人生の光と影も、ありありと浮かび上がった。

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 と叫んだ浩の声が思い起こされた。

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 と絵の中の人間も叫び問う。

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 と下半身を失くした潰れた顔の子供が絶叫している。

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 と殺し殺される人々が悲鳴をあげている。

 だけど絵の中で一人、悪魔のように笑って人の胸を刺す男だけが、それらの声を圧殺している。

「くそがあ、くそがあ・・」

 絵を見る男は、ぶるぶる震える手でポケットをまさぐった。

「こんな絵、ナイフでズタズタに引き裂いてやる」

 ポケットにナイフはなかったが、伊藤勇が浩の太腿をナイフで突き刺したことを思い出し、落ちてないかと辺りを照らした。

「勇は、どこへ行きやがった? そして、田口浩も・・」

 ライトが照らしたキャンパスの中で、キジトラ猫が笑ってた。前足がこちらへ伸びて何かをねだっている。グールグール、喉鳴らしが聞こえた。

「大丈夫、大丈夫・・」

 と猫は目を細め、喉を鳴らしていた。

「ああ、おまえと一緒に、永い眠りにつこうか・・」

 そうつぶやいたが、すぐにぶるっと首を振った。

「いや、今、ぼくは、死ぬ前にしなきゃならんことがあるじゃねえか・・」

 自分に言い聞かせた。

「何としても、これらの、いまいましい絵を、始末しなきゃ・・何としても、強い日本を取り戻すために・・」

 電灯で別の絵を照らすと、

「うおっ」

 と、また叫び声をあげていた。

 二人の男が、画面いっぱいに殺し合っていた。

 右の男は、右手の銃剣で相手の腹を突き刺し、左手ではらわたを引き出している。左の男は、左手で右の男の髪をつかみ、右手の短剣で首を切り裂いている。憎悪と恐怖と悲しみでむき出しの目が、睨み合い、ひん曲がった顔で絶叫している。日本兵と中国兵のようだが、どちらも黄色いアジア顔で、どちらが同胞か分からない。

「おれたちに、何の罪があるというのだ?」

「なぜ殺し合わなきゃいけない?」

 そんな怒りと悲しみの混じった叫びが、二人から溢れ出ている。

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 と、また聞こえてきた。

 だけど今まさに彼らのすぐ後ろで、巨大な爆弾が炸裂していて、彼らの絶叫を燃やし尽くそうとしていた。

「ちくしょうめ、ちくしょうめ・・」

 絵に打ちのめされた男は、もう一度ライトを動かし、絵を切り裂く凶器を捜した。ナイフは見つからなかったが、座席の隅に何か光るものを見つけた。

 銀のライターだ。

「ひっひっひ・・」

 曲がった口から奇妙な笑いがもれた。

 ライターを手に取り、着火して絵に近づけた。

「これで、ぼくも、英霊たちの、仲間入りを果たすんだ」

 彼の眼前に再び浮き出たのは、ライターの炎に照らされた、殺し合う兵士だ。指とともに、炎も、血まみれの兵士も、ぷるぷる揺れた。

 さらに炎を近づけると、狂おしくゆがむ顔が、目や口を裂けるほど開いて、絶叫した。絶望の声に引き込まれ、彼はいつのまにか戦場の中にいた。爆音と死臭が彼を包んでいた。聞こえていた川のせせらぎは、今では大量の血の流れる音に変わっていた。目の前の兵士の腕が伸びてきて、彼の腹に銃剣を突き刺した。怒りと悲しみの目が彼を睨みつけ、熱すぎる剣の刃がぐにゅぐにゅ動き、胃を、膵臓を、腸を、切り裂いていく。

「うぎゃあああああ」

 経験したことのない劇痛に、叫ばずにはいられなかった。

 やり返そうと、炎を突き出すが、ぎりぎり届かない。

「なぜだあ? なぜ燃やせない? もう、ぼくは、血が足りなくなった、のか?」

 火は消えてないはずなのに、目の前が暗くなり、兵士の顔が見えなくなった。震える指からライターが滑り落ちた。死が迫り、せん妄症状の男・・・彼のズボンに炎が燃え広がったのは、数秒後のことだ。炎はオイル臭に満ちた車内にも広がり、猫の絵も、戦場の絵も、黄色い炎と暗い煙を上げ始めた。男は戦火の中でひいひい悶絶した。さらに漏れ出していたガソリンにも引火して、炎が一気に広がる音とともに車は炎上した。降ってきた爆弾にも似た灼熱地獄の炎に、男の皮膚も腸も肺も心臓も唇も舌も鼻も眼球も耳も髪も脳も、そして彼の明日も明後日も一年後も十年後も・・・焼き尽くされていった。


 









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