33

 車は谷を抜け、再び坂を上り始めた。

 前方には黒い山が魔王のように見下ろし、大きな月がそれを冷たく照らしていた。

 よじり続けた手首の紐が少し緩んだ感じがして、浩は痛みを隠して手首を動かした。

 蛇行する山道を、車はレーシングカーのように唸って昇り続けた。空の彼方へ旅立つように、どこまでも・・・・

 遥かな魔王の頭部が、いつしか目前に迫っていた。

「このあたりでいいだろう」

 秀雄の言葉に、伊藤勇がブレーキをかけた。

 伊藤と野田の大きな角刈りコンビが車から出て、ワゴン車の後ろからシャベルを取り出し、懐中電灯で照らしながら、樹木の隙間へ入って消えた。

 夏実が不安に満ちた声で秀雄に聞いた。

「あの二人は、何しに行ったとです?」

 秀雄は背を向けたまま、低い声で答えた。

「夏実ちゃんの隣にいる男の、父親を捜しに行ったんだよ」

「こんなとこに、いるの?」

「夏実ちゃんも、一緒に、行かせてあげることにしたからね」

「どういうことですか?」

 薄ら笑いをもらすだけの秀雄の代わりに、浩が教えた。

「今、あいつら、シャベルを持って行ったやろ。森林に穴を掘って、おれたちを、埋めるつもりなんだ」

「ほう・・」

 と秀雄はもらして、一瞬振り返った。

「やっぱりきみは頭がいいんだね。きみのお父さんは、ただのばかだったけど」

 後ろ手に縛られた手首の紐を、怒り狂って揺り動かしながらも、浩は冷静を装って聞いた。

「おれたちを山に埋める理由があるんだろ? あんたは、おれのお父さんも、どこかの・・」

「ほら、やっぱりきみは頭が切れる・・」

 と秀雄は興奮気味に言う。

「地獄への入獄祝いに、教えてあげるよ・・あれは、ぼくの初めての粛清だった。だから忘れもしないんだよ。田口学は、ぼくの美術商としての第一歩の絵画展に、この国のために戦った英霊たちを愚弄する絵を送って来た。ほら、きみが野崎画伯に描かせた数枚の絵と、同じ内容の絵だよ。許せなかったねえ。すぐに焼き払ったよ。天皇陛下のために死んでいった勇者たちの思いを、踏みにじる絵じゃないか。アジア人をイエローモンキーと呼んで差別し、支配した欧米人から、大東亜共栄圏勝ち取るための、祖父や親父たちの命がけの戦いを、非難する絵じゃないか。ぼくの親父はね、この国の力を復活させるために、日本愛国会を創ったんだよ。今じゃ政界にも財界にも影響を及ぼす組織となった。ぼくらは必ず、他国に押し付けられた憲法を変えてみせるよ。この国も、他国に負けないように、強力な軍隊を持ち、海外へ派遣できるようにしなきゃだめなんだ。じゃなきゃ、どっかの国みたいに、大国に簡単に侵略され、土地を奪われちまうよ。だけど、この国から、あんなひどい絵が発表されたら、だいなしじゃないか」

「それで、おれのお父さんを、殺したのか?」

 浩は冷静を忘れ、その声は怒りと悔しさに満ちていた。

 秀雄の声もさらにぎらついた。

「それでも、絵を葬るだけで、許してあげるつもりだったんだよ。なのに、田口学のやつ、愛国会の事務所までやって来て、描いた絵を返して欲しいと言いやがった。だから、やつが犯した重大な罪を教えてやって、もうその絵は処分したと教えたんだ。なのにやつは、それなら何度でも、何枚でも、いや、何万回でも、何万枚でも、同じたぐいの絵を描くなんてほざきやがった。だったら、おまえはこの国にとって害虫だから、駆除するしかないぞって、おれは告げたんだ。するとやつは、こう言ったね・・たとえ殺されても、自分はその絵を描かなきゃならないって。だから、お望み通り駆除してあげたんだよ。きみのお父さんは、本物のばか者だったんだよ」

 浩の手首は紐がこすれて血まみれになっていた。それでも彼は歯ぎしりしながらよじり続けた。

「もしかして、正太の戦争の絵を、ネットやマスコミを操作して誹謗させたのも、あんたの仕業か? そして、父の遺志を継いで正太にあの絵を描かせたおれも、駆除しようってわけか?」

「そういうことだよ」

「ならば、夏実は関係ないよね? 夏実は自由にしてくれるよね?」

 秀雄はフロントガラスの向うの闇を見たまま、くすくす笑った。

「何がおかしい?」

 と浩が聞くと、秀雄は笑い混じりで言う。

「夏実ちゃんは、知らなくていいことを、知りすぎてしまったからねえ。それに、きみと夏実ちゃんは、好き合っているから、一つの穴に埋めてあげるんだ」

「お、おれは、こんな女、ちっとも好かんけん」

 と浩が否定すると、夏実も甲高い声で言う。

「あ、あたしだって、こんな男、好きなわけないわ」

 浩は夏実の脇腹を肘で突き、声を高めた。

「ほうら、おれはこんな女と同じ穴に眠るなんて嫌だ。あんただて、夏実がいないと、これからの正太との取引がうまくできんやろ? あ、あれっ?」

 突然、うえーん、うえーん、大声で泣き出した夏実に、浩は言葉を失くした。

 秀雄が振り返って、おさなごのように泣く娘に聞いた。

「あらあら、夏実ちゃん、どうしちゃったの?」

 夏実は体を痙攣させながら、泣声で訴えた。

「秀雄さん、あたし、秀雄さんの言うこと、何でも聞くけん、この人を、殺さないでえ。あたしを好きにしてよかけん、どうか殺さないでえ。その手であたしを殺してよかけん、だから、あああ」

「浩くん、これがこの娘の本心だよ。だから、いっしょにお父さんのところへ行ってもらうのは、運命なんだよ」

 そう言って、秀雄はフロントガラスへ向き直った。

 浩の全身の血が煮えたぎった。痛みも忘れ、手をよじった。

「人殺し」

 と夏実が泣きながら非難した。

 秀雄は冷笑した。

「人殺しだって? ちゃんと本当の歴史を勉強しなよ。人殺しが、人間の歴史じゃないか。その証拠に、今も世界のいろんな場所で戦争は起きている。正義のために、人間は戦争を繰り返し、土地を奪い、奪われ、世の中を変えて来たんだ。戦争で勝利した国の指導者は、その血沸き肉躍る戦略に酔いしれ、巨万の富を生む兵器産業と結託し、また戦争をしたくなるもんだよ」

 もがき続けていた浩の手が、ついに緩んだ紐から抜けた。浩はそれを隠し、秀雄に確認した。

「するとあんたは、おれのおじいちゃんが戦争で人を殺したことを、悪いことじゃないと言うとやね? それどころか、賛同するとやね? そしておじいちゃんの懺悔を聞いて、その罪を償うため、お父さんが魂注ぎ込んで描いた絵を、ただただ毛嫌いするとやね? それどころか、あんたは、この国をまた、他国へ出て戦争を行える国にしたいとやね?」

 秀雄はもう一度振り返り、闇に沈む目を見つめた。

「他国から押し付けられた憲法や価値観を壊して、この国を本来の姿に戻すことが、ぼくの父の夢なんだよ。そしてぼくも、その意思を継いでいくつもりだ」

 浩は闇を切り裂くように睨み、もう一度確認する。

「つまり、あんたは、戦争で誰かの命を奪っても、いいと考えるとやね?」

「殺さなきゃ、殺されるんだぜ。それが戦争だし、この世から戦争がなくなるなんてないんだ」

 唇をゆがめるような薄笑いでそう言いうと、彼はまた、ゆっくり背を向けた。

 その瞬間、浩が獲物をしとめる毒蛇のように飛びついて、ほどけた紐をその首に巻き付けていた。

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 そう絶叫しながら浩は両手に力を込め、紐で首を絞めた。

 秀雄は呻きながら首の紐を握ろうとした。だけど紐はもう深く血管まで食い込んでいて、どうにもできぬまま意識が痺れていく。

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 狂気の叫びが繰り返し秀雄の頭の内にめり込んでくる。

 秀雄は両手を振り回して背後の敵をつかもうとするが、意識が朦朧としているのか、力のない腕の動きがだらしなくなっていく。

 夏実が浩に抱きついて止めようとする。

「もうやめてえ。浩、あんたまで殺人犯になっちゃうよお」

「人が人を殺すことがいいことかあ?」

 悪魔に憑かれたように狂乱する浩の頬を、夏実は引っ叩いた。そして浩の顔を胸に抱き入れ、彼に負けない声を出した。

「あんたは、何のためにあの絵を描いたと? あんたのお父さんが望んでるのは、ただ一つ・・あの絵を世に出すことよ。あたしたち、どうなっても、あの絵を、世に広めましょう。この国がノーと言うのなら、あの絵を分かってくれる世界の誰かに発信しましょう。だから、その手を離して。あたし、あんたを、ずっとずっと、支えるから」

 逆巻く血潮の鼓動の嵐に熱せられ、浩の指が紐から離れた。助手席の秀雄の上半身が、運転席へ崩れ落ちた。

「さあ、早く逃げなきゃ」

 夏実がドアを開けて外へ出た。

 浩は足を縛るビニル製の粘着テープを指で剥がした。

 夏実は助手席のドアを開け、失神状態の秀雄を山道に引きずり出そうとする。浩も後部座席からそれを手伝い、車外へ出た。

「おれが運転する」

 そう言って、浩が運転席へ回ろうとした時、明かりと足音が闇から飛び出して来た。

 懐中電灯が浩の顔を直撃し、野田の声が響いた。

「やっ? 何でお前が?」

 運転席に乗り込むには手遅れの距離だ。

 浩は夏実の手を取って走り出し、月明かりだけの坂道を下って逃げた。

 野田はすぐに追おうとしたが、道に倒れた人間につまずいて転んだ。

 電灯で照らすと、意識を戻した秀雄が苦しげに咳き込んでいる。

 野田は伊藤に二人を追うように命じて、自分は秀雄の介抱をした。

 伊藤は右手にシャベル、左手に懐中電灯を持って追いかけたので、速く走れなかった。道は舗装されていても、暗黒の下り坂を走るのは危うい。二度目に転びかけた時、シャベルを放り出した。

 暗すぎる山道を、浩と夏実は冷や汗にまみれて駆け下りた。二人とも靴を履いていなかった。手を取り合い、どちらかが転びそうになると、もう片方が腕で支えた。

「気をつけて。転ばないことが、一番やけん」

 そう浩は、夏実にも自分にも言い聞かせて走った。

 死神の足音が迫り、夏実の息も上がっていく。

 走りながら浩は言う。

「夏実、よく聞くんだ・・あいつらの狙いはおれだ。おれがおとりになるけん、夏実は逃げてくれ」

 夏実は闇を払うように首を振る。

「そんなこと、ありえん。あたしたち、一緒よ」

「捕まったら、殺されるとぞ。夏実、さっき言っただろ・・あの絵を世に出すって。困ったら、信雄に相談すればいい。あいつは、信頼できるやつに変わってるから」

「せからしかあ。一緒に逃げるよお。こんな暗い山の中で、一人にせんでよお」

「せからしかとは、夏実たい」

 浩は真っ暗な脇道へ駆け込むと、握りしめていた手を振りほどいて、愛しい背を闇の奥へ押しやり、すぐに引き返した。そこへ伊藤が走って来た。浩は意を決し、大きな足へ足裏をぶつけてスライディングした。

「うわっ」

 不意を突かれた大男の悲鳴が浩の頭を越え、坂道を転げた。

 その横をわあわあ叫びながら浩は駆け下りて逃げた。

「殺すぞ」

 怒りに吼え、伊藤は荒い足音で迫って来た。


 山の細い人道を、暗黒の息を吐く樹木の間をすり抜けながら夏実は下った。

「お願い、幽霊さん、出んとって。出んとってえ」

 と頼みながら、岩の多い急斜面を下った。

 靴下だけの足の裏が、小石を踏むたびチクチク痛んだ。すすり泣きが森林に満ちていた。それは無数の霊の泣声なのか、夏実自身からもれる泣声なのか、怖すぎて分からなかった。岩に足を滑らせ、転んだ。


 車道を走っていた浩も、何かにつまずいて坂道を転げた。

 どうにか立ち上がったが、大男に飛びかかられ、、アスファルトに叩きつけられた。抵抗しようとしたが、巨体に乗られ、両腕を押さえられ、身動きできない。

 そこへ車のライトが近づいて来た。車がすぐ近くに止まり、人が出て来た。

「助けてください。この男が、おれを殺そうとしています」

 と浩は大声で訴えた。

 ライトを背に、コツコツ靴音が響き、黒い影が近づいて来た。

「夏実ちゃんは? 夏実ちゃんはどうした?」

 と秀雄の声が響いた。


 山下りの途中で、夏実は狭い人道から車道へ出た。

 月光が闇を覆う杉の隙間から差し込んだ。

 まっすぐ進めば、再び岩だらけの人道へ入ることができた。

「もう、ムリ。幽霊だらけだし、足も痛いし・・」

 そうつぶやいて、車道を下った。

「ああ、浩のやつ、ちゃんと逃げれたかな? ちくしょう、あたしを、こんな怖いとこに一人で行かせるなんて。あいつ、生き延びんやったら、絶対許さんけん」

 周りの木々が風に揺れ、幽霊に見えて正視できない。

「ほんと、やめて。出ないでえ。お化けか幽霊か知らんけど、出たら、やっつけるけんね」

 べそをかいてそう言った時、茂みから何かが飛び出した。その後を何かが追いかけた。イタチか山猫だろうか。夏実は悲鳴をあげながら道路を駆け下りた。

「ごめんなさい。嘘です。嘘やけん、どうか出ないでえ。ああ、浩、助けてえ。浩、どこにおるとお?」


 四人を乗せたワゴン車が、つづら折りの車道を下った。今は野田が運転している。狭い山道は、左が山肌で樹々に覆われ、右が深い谷底へ続く崖のようだ。その暗黒を、注意深く浩は見つめていた。

「浩くん、夏実ちゃんはどうした?」

 と助手席の秀雄が聞いた。

 運転席の後ろに座る浩は、心で叫んでいた。

『どうせ殺される。なら、夏実を救い、父の敵を討つのは、今、だ。今、しかない』

 不自然に震える浩の頬に、隣の伊藤がナイフの腹をペタペタ当てて言う。

「おい、ボスの質問を無視すると、痛い目に合うぞ」

 浩は闇の顔を睨み、やはり心で叫んだ。

『痛い目に合うのは、おまえもだ』

 秀雄が怒りの声で言う。

「勇、痛い目の意味を、教えてあげなさい」

 伊藤はナイフの先を浩の左腿に当てた。細い目がぎょろりと剝いて、闇に戦慄する浩の心を覗き込んだ。

「ああ、痛いいい」

 と浩は悲痛な声をあげていた。

 太腿から脳天まで突き上げる劇痛が、肉に金属が食い込んで骨を突いたことを通知していた。頭が潰れるように燃えて痺れた。救いは闇で鮮血が見えないことだ。

「さあ言え。夏実はどうした?」

 そう問う秀雄の声の方へ、浩は口にたまったよだれを吹きかけた。

 腿に刺したナイフを持つ悪漢の手が、怒りに震えた。

「うおお、うおお・・」

 と浩は悲鳴をあげた。

 堅く尖った金属が、さらに太腿の肉を抉り裂き、血管や神経を切り、大腿骨を傷つけた。

『ちくしょう、おまえらを、道連れにするまで、絶対気を失うもんかあ』

 と薄れる意識で叫んだ。

「誰かいます」 

 と野田の声が響いた。

「夏実だ」

 と秀雄の声も聞こえた。

 車道を下っていた夏実が、背後からのハイビームに気づき、立ち止まって振り返った。車が危険なスピードで迫って来る。

『ああ、もう一刻の猶予もないじゃないか』

 と浩の心が絶叫した。

 伊藤がナイフを引き抜いた瞬間、浩は前の座席へ死に物狂いでダイブした。両手でハンドルをつかむやいなや、狂乱の力で右に回した。

「うおおおおお」

 咆哮が、爆走して下る車輪を右へ向けた。

「何し・・うわああ」

 野田の叫びが車内の空気を凍らせ、斬り裂いた。

 急ブレーキの音は一瞬で、突然車は右下へ傾いた。男たちの絶叫が絡み合い、体が浮いて上下が逆転した。ドンッと音が響き、シートベルトをしていない浩と伊藤の体が天井から側面へ弾かれ、世界が急速に回った。車はドンッ、ドンッと崖にぶつかるごとに回転速度を上げ、谷底へ転がり堕ちた。割れたガラスが車内を舞い、絶叫が大きく入り口を開いた地獄まで響き続けた。バーンと大きな衝撃に呑まれ、浩の体は砕けたフロントガラスから宙へ飛び出し、暗黒を堕ちた。

「ぎゃあああああ」

 砕け散っていく世界と自分、その恐怖の炎に浩は包まれていた。それは正太に描かせた絵のように、戦争で体も心もぐちゃぐちゃに潰されるのと同じだ。死を悟った瞬間、浩はなおさら生きて、あの絵を世に出さなきゃ、と熱烈に思った。父もそう思って死んだだろうことを思うと、無念でならなかった。そして戦争で理不尽に人生を奪われる人々の悲しみも、全身の血の逆流で感じていた。


 自分に襲い来る車が、突然曲がって谷底へ消えて行ったのを目撃した夏実は、へなへな路上にへたり込んでいた。ハイビームのライトは消え去り、辺りは月明かりの闇で、星々が色鮮やかに尖っていた。

「あたし、助かったの? それとも、夢? でも、ああ、何で? 何であの車、あんなおかしな曲がり方で、谷に落ちて行ったの? 何でえ? ああ、浩なの? あんたがやったとお?」

 割れた胸から噴き出る血しぶきような声を出し、夏実は泣きだした。

 

















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