30
夏実が夕食を作っている時、浩は居間の床に突っ伏してふさぎ込んでいた。
玄関が開き、帰ってきた正太が、ばたばた叫んだ。
「の、のぶお、きた。のぶお、きたあ」
夏実が料理の火を止め、キッチンから出て、聞く。
「のぶおって?」
浩も驚いて立ち上がり、廊下へ出た。
「まさか・・信雄?」
「のぶお、きた」
正太が指す玄関に、長身で面長の男が立っている。
夏実が近づくと、男は頭を下げ、よく通る声を発した。
「こんばんは、高山、です。十年ぶりに会いに来ました」
「十年ぶりって・・」
首をかしげていた夏実が、その男を指さし、頓狂な声を上げた。
「あー、思い出したあ。そのオオカミのような顔。あたしに抱きつきよった悪いやつ。お兄ちゃんをいじめてた、好かんやつ・・信雄だあ」
夏実の後ろで、浩も目を皿にした。
「信雄、おまえ、夏実にそんなことしよったと?」
と浩が言うと、振り返った夏実が脛を蹴った。
「あんたにゃ、言えんやろ」
「あいたあ、何でえ?」
目に角を立てると、娘の目も三角になる。
「あんたは、まだ小さかったあたしの胸をつかんだやんね」
浩は首を振り、
「なーん、知らん知らん。知らんけど、あ、あれは、事故だったとよ。あの時は、あんなにひどく、川に突き落とさんでも、よかったろうもん」
しどろもどろの浩を指して、信雄が感動の叫びをあげた。
「うわあ、浩かあ? 何だ、浩じゃないか。何でここにいるとやあ?」
「信雄こそ、何でここにいる? カルフォルニアで働いてるはずだよね? グラフィック何とか、という仕事をしてるんだよね?」
と浩は聞き返す。
「わあ、懐かしかあ」
互いに質問を無視して手を取り合った。
「びっくりやあ」
「びっくり、びっくり」
夏実が睨みにも声にも怒りを込める。
「びっくりは、こっちやけん。あんたら、そんなに仲良しだったと? あんたら仲良しで、あの頃、あたしたちを、もてあそんでいたと? ひどかあ」
信雄が胸の前で、違う違う、と手を振って、
「おれたち、同じ高校に入って、高校でも同じクラスになって、その時、友達になったとよ」
正太が口をはさんだ。
「お、おいと、ひろし、くん、ともたち」
夏実は浩の胸を痛い音がするくらい小突いた。
「あんた、こんな悪いやつと友だちになったと?」
「前に話しただろう? そりゃあ、中学の時は、信雄はひどかったけど・・」
と浩が言っている時、信雄がふいに膝をつき、頭を下げて語り始めた。
「ごめんなさい。このとおりです。おれは、ここに、謝りに来たんです。ずっと、あなたたちのことが胸に引っかかっていて、いつか、心から謝ろうと思っていたんです。今回、仕事で帰国したから、こうして訪ねて来ました。正太が有名になってたから、捜し出すことができた。あの時正太が描いたいじめの絵が、有名になったんだってね? 本当に良かった。中学の時は、あの絵の意味が分からなかったけど、あの絵は、おれのこの胸でしだいに膨らんでいって、だんだんその意味が大きくなって、おれを内側から壊し始めたんだ。その時初めて、本当の意味で、罪というものを知った。それで、おれは、変わることができた。心が壊れることでやっと、変わることができたんだ。初めは嫌悪と吐き気しか感じれなかった正太の絵が、この胸の奥で成長して怪物になったんだ。高慢だったおれを打ちのめす怪物に。だけどそれは、おれを本当の意味で救ってくれる怪物だった。あの頃おれたちがばかにしていじめていた正太は、本物の天才だった。そしておれは、今では、あの時正太があの絵を描いてくれたことに、感謝しています」
信雄は、涙を湛えた熱い目で兄弟を見つめ、玄関で深々と頭を下げた。
すると正太も彼の前にひざまずいた。
「の、のぶお、くん、ひろしくん、と、ともたち。おいも、ひろしくんと、ともたち。ともたち、ともたち」
夏実が手を差し伸べて、相手を立たせようとする。
「そんなに謝られても、困ります」
その時、チャイムが鳴って、返事もしてないのに玄関のドアが開いた。
「あっ、ヒョウ柄女」
と夏実は口走っていた。
ドアを開けた娘は、異常な目で夏実と浩を交互に睨んだ。
「そうよ、ヒョウ柄女よ」
と直球をライナーで打ち返す。
そして信雄と正太を蹴散らすように突入すると、浩の右腕を肉食獣のように
つかんだ。
「浩さん、やっぱり、この女のところにいたとやね。ずっと待ってたのに、帰って来んで・・ひどかあ。さあ、帰りましょう」
涙目で腕を引っ張る。
「佑子ちゃん、ごめん。おれは、ここにいる」
踏ん張る浩を、佑子は唇を噛んで引き、わめき声をあげた。
「昨日から、カレー作って、浩さんのためにずっと煮込んで、今が一番おいしかよ」
「帰らない」
「何でえ?」
「佑子ちゃんがおるけん・・間違いが起きたら、どうすると?」
「間違ってよかもん。間違えるために、来たとやもん」
その言葉を聞いた夏実の首から上が、みるみる赤くなっていった。夏実は戸口へ引きずられようとする浩の左腕をつかんで、引っ張り返していた。
「せからしか女やねえ。帰らないって、言ってるやろ」
「せからしかとは、あんたたい。その手を離さんかあ、この暴力女」
「お前こそ離せ。嫌がってるやろ」
浩の両腕を引っ張り合いながら、むき出しの鬼女の目がバチバチ火花を散らせた。
正太は火傷すまいと、信雄とこそこそ居間へ移動し、ドアの隙間から観察した。
「腕が、もげるう」
と浩が悲鳴をもらしても、女の意地の綱引きは殺気を増すばかりだ。
「わたしが先にツバつけたとやけん、わたしのものよ」
「はあ? だったらあたしがその百倍ツバつけちゃる」
腕を引きながら浩に唾を飛ばす夏実に、浩は言う。
「幼稚園児かあ」
「浩さんが嫌がってるじゃない。汚い淫乱女があ」
「はあ? 今世紀最大の清純派って呼ばれてるあたしに、インランとは何よお? ヒョウ柄下着のくせに」
「わたしの勝負下着は、浩さんだけのためだからね。婚約者と二股かけてるあんたとは違うとよ。ねえ、浩さん・・あれっ? 浩さん、どうしたと?」
浩は女の炎に焦がされたように、ぐったり目を閉じていた。
「えっ?」
二匹の獣が心配して手を離した瞬間、死んだフリの浩の目がバチッと開いた。そしてもう、靴も履かず、玄関を飛び出した。
「え?」
夏実が事態を察するのに三秒ほどかかった。そして次の一秒後には「あの野郎・・」と発し、彼女も素足のまま疾風となった。
「あれっ?」
キツネとタヌキに化かされたように佑子は唖然としていた。彼女が玄関を出たのは、さらに十秒後だ。
彼女の後を、正太と信雄も追った。
佑子が暗い裏通りを抜け、角を二つ曲がった時、路地の五十メートルくらい先に、街灯に照らされた浩を見つけた。角刈り頭の大男が二人いて、一人が浩をつかみ、もう一人が殴りつけた。そしてぐったりとなった浩を、黒いワゴン車の後部座席に担いで入れた。そこへ夏実が悲鳴をあげながら駆け込んだ。
「何? これは夢? 何が起きてるの?」
と言葉をもらしながら佑子は走った。
「仕方ない。そいつも連れて行くぞ」
と言う男の声が車内から聞こえ、ドアが閉じられ、佑子が追いつく寸前に車はエンジンを唸らせ発進した。そして悪魔のスピードで走り去った。
正太を連れて駆けて来た信雄が、立ち尽くしている佑子に聞いた。
「あれっ? 二人は?」
「嘘でしょ・・ねえ、あいつら、誰?」
と問い返す佑子の顔は蒼白だ。
信雄は眉を吊り上げ、彼女の肩に手を触れた。
「どうした? あいつらって、誰のこと?」
「二人の、角刈り頭の、大きな男が、浩さんを殴り倒して、車に乗せたの。夏実さんも、その車に飛び込んで行って、そして・・」
佑子はぽろぽろ涙をこぼし、へなっと道路に座り込むと、声を上げて泣き出した。
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