29

 その夜、新樹荘の錆びた階段に、浩の足音は響かなかった。

 佑子はカレーを作って待っていた。

「きっと、あの女のところだ」

 帰って来るまで食べないと決めた。

 深夜、古い木造の部屋が女の嫉妬で軋んだ。


 夏実は病室で浩にずっと付き添っていた。心をつなぐように、指を絡めて手を握っていた。

 浩が目覚めたのは、失神してから二十四時間後の昼だ。

 脳の検査で異常なしと出ていたので、すぐに退院できた。


 帰りのバスに揺られながら、隣に座る浩に夏実は聞いた。

「昨日は、どうして、ホテルに来たの?」

「あの男と婚約する、なんて言うから」

 と浩は前を見たまま言った。

「あたしが幸せになっちゃ、いかんと?」

「あの男とじゃ、夏実は幸せになれんけん」

「あんた、やっぱり、妬いてるとやろ?」

 浩はチラッと真剣な目を見返したが、すぐに目をそらした。

「おれは、夏実が本当に幸せになるのなら、邪魔したりせん」

「どうして、あたしの幸せが、あんたに分かるの?」

「分からんよ。分からんけど、あの男とじゃだめってことは、分かる」

「せからしかあ。じゃあ、あたしも、一つだけ言わせてもらうけど・・あんただって、あの、ゆうこっていう女とじゃ、幸せになれんけんね」

 浩の目が熱を帯び、夏実をビクッとさせるほど見返した。

「それは、当たっているけど・・どうして分かると?」

「えっ、当たってると?」

 意外だという顔をする。

「何ね? いいかげんに言ったと?」

「いいかげんじゃなか。本気やけん。でも、何であの女じゃ、あんたは幸せになれんと?」

 見つめ合う目がさらに熱くなった。

「誰かのかわりには、なれんけん」

「誰かって?」

 浩はもつれた視線を引きちぎるように前を向いた。

「秘密」

「せからしかあ。好かん、好かん。あんたなんか、あっ」

 青年の左手の指が娘の右手の指を握って、彼女の口を閉じさせた。絡み合う指が、千の言葉以上に時を止めた。


 バスを降り、食事の材料を買ってから、野崎家へ歩いた。

 家の中で、北野秀雄と、二人の角刈り頭の大男が待っていた。正太は散歩に出かけたらしい。

 夏実が出した緑茶を居間で飲み、秀雄は言った。

「今日、野崎画伯の猫の絵を頂いて、明日、東京に持って帰ります」

 八枚のミャアの絵を包装した後、秀雄は鞄から現金を出し、夏実の横の台の上に置いた。

「今回、百万、お支払いします。現在、野崎画伯の絵は信用を失っていますが、ぼくが何とかしましょう。そのかわり、奥の部屋の、戦争の絵も頂きたい」

「問題となっている絵を、どうされるおつもりなのです?」

 と札束を見ながら夏実は聞いた。

「間違って世に出回らないよう、うちで預かっておきます」

「あなたに預かっていただけるのなら・・」

 と言う夏実の言葉に、浩が横槍を入れた。

「それだけはだめだ。あの五枚は、絶対譲れん」

 夏実は浩を睨んだ。

「何言うと? うちがお金に困ってるのは、あんたのせいやけんね」

「あの絵は、おれが預かるけん。お金なら、おれが働いて、何とかするけん」

 目の色を変える浩に、秀雄が質問する。

「どうしてあんな世間の非難を浴びている絵に、そんなに熱くなっているんだい?」

「あれは、おれのお父さんが、失踪する前に描いた絵を元にしたものだから。父の遺言、みたいなものだから」

 と勢いで言ってしまい、浩は唇を噛んだ。

「何だい? それじゃ、野崎正太の絵とは言えないじゃないか」

 あきれた目が浩の胸を突いた。

「描いたのは正太で、正太があれらの絵に、魂を吹き込んだんです」

 秀雄は覗き込むように浩を見た。そして低い声で尋ねた。

「もしかして、君のお父さんは、田口学、じゃないかな?」

「え? 何で? 何で知ってる?」

 浩の目が大きく見開いた。

 秀雄の眉間に縦じわが深く刻まれた。彼の首がゆっくり左右に振れた。それからさらに顔が険しくなった。

 浩はもう一度問う。

「おれのお父さん、を、知ってるんですね?」

 秀雄はまた首を振り、表情のない能面が張り付いたような顔になった。

「ああ、今、はっきり思い出した・・もう、十年以上昔かな・・あの絵と同じようなひどい戦争の絵を、ぼくの父が主催した絵画展に出品しようとしたのが、田口学だった。よく覚えてるよ。ぼくが任された、初めての大仕事だったし・・」

「じゃあ、父の絵を、ご存じだったんですね? その絵は、今、どこにあるんですか?」

 秀雄は不自然に首を振り続ける。

「きみのお父さんが、持って行ったよ」

 と言って、胸の中で『地獄へね』と付け加えた。

 浩は食い下がった。

「お父さんは、あの時、東京へ行ってから、行方が分からんようになったとです。父のこと、何か知らんですか?」

 秀雄はなおも首を振ったが、彼の目の異様な影を、浩は見逃さなかった。

 怒ったように秀雄は居間を出て、二人の部下に、奥の部屋の戦争の絵を持ち出すよう命じた。

 止めようとする浩の前に、夏実が立ちふさがった。

「また借金生活に戻れと言うと? 今は、こうするしかないとよ」

 浩が右を抜けようとすると夏実もそちらへ動き、左を過ぎようとすると熱い体をぶつけて抱き留めた。

 浩は夏実を炎のように見つめ、肩を揺さぶりながら叫んだ。

「あれは、世界の未来を変えるかもしれない、大事なものなんだ。罪もなく殺される人々を救えるかもしれない、大事な絵なんだ・・」

 もみ合っているうちに、男たちは五枚の絵を強奪して行った。

 レンタカーの黒いワゴン車の助手席に座ると、秀雄は冷酷な声で運転席の若い男に言った。

「勇、すぐにホームセンターへ行け。粛清の準備だ」




















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る