28
二人の大男が出てきた部屋を確認して、浩は非常階段の扉の裏に身を潜めた。耳を研ぎ澄まし、彼らがエレベーターで最上階から去るのを待った。人の気配が消え、廊下へ忍び入った。
ふうーと息を吐き、その部屋のチャイムを押した。
応答がない。
繰り返し押した。押して、押して、押しまくった。
「何だ? まだ何か用があるのか?」
という腹立たしげな声とともに、ドアが開いた。
ハリウッドの人気俳優のような美男が立っていて、浩を見ると、目を大きく見開いた。
「おや、きみは・・」
「こんにちは、野崎正太の友だちの田口浩という者です」
浩は頭を下げた。
「きみが、なぜ・・」
冷たい鉄の壁のような対応だ。
「戦争を描いた正太の絵を世に出したくて来ました。その絵の価値を、あなたなら知ってらっしゃると思って」
「ああ、よく知ってる・・あのふざけた絵が、この国をだめにすることを。今、あれらの絵が、野崎画伯を窮地に追い込んでいることを、きみも分かっているよね?」
浩は言いたい言葉を呑み込むように深い息をし、見下すような目を見返した。そしてフッと笑った後、真顔になった。
「今のは言い訳で、本当は、彼の妹に会いに来たんです。ここにいますよね?」
秀雄は薄ら笑いで、
「いるわけないだろ」
「平気で噓をつける人なんですね」
笑みが消え、眉間に縦じわがよった。
「どうしてここにいると思うんだい?」
「匂いで分かるんですよ」
「あ、何を?」
ドアを閉じられる前に、強引に突入した。相撲のように体を低くして頭を肩にぶつけ、両手で押しのけた。リビングからベッドルームへ駆け入ろうとする浩の左腕を、秀雄は追ってつかんだ。
「夏実」
「出ていけ。殺すぞ」
と叫ぶ秀雄の顔へ、浩は右の拳を突き出した。
秀雄がとっさに身を引き、拳は空を切った。
もう一度拳を放ったが、これもかわされた。その瞬間、浩は口に衝撃を受け、頭の後ろがガッと響いた。唇と前歯の歯茎が痺れ、錆びた鉄のような味を感じた。一瞬遅れて、秀雄の左拳が反撃を突いたのだと認知したが、その時にはもう、右拳も浩の顎を突き上げていた。脳が揺れ、よろける胸を、蹴り上げられた足が追撃した。飛んだ体の足がソファーにぶつかり、世界が高速で回転した。ゴンッっと頭の奥が爆発して奈落に沈み込んだ。
夏実の声が聞こえた。
「浩、何でえ? あんたあ、何でえ?」
頭も体も痺れて、駆け寄って倒れ込むように見下ろす夏実の顔が、白髪の老婆に見える。
「夏実を・・」
痺れた口内に何か絡んでうまくしゃべれない。
「え? なあにい?」
夏実のしゃべりも酔いが回って変だ。
浩は血糊を床に吐き出して、両手を差し出した。夏実がそれを取って、よろける
上体を起こさせた。
秀雄が上から声をかけた。
「夏実ちゃん、離れていて。こいつが二度と追っかけができないように、ぼくがやっつけてあげますから」
「追っあえ?」
と聞いて、浩はもう一度血を吐き出した。
「夏実ちゃんから聞いたぞ・・きみが夏実ちゃんを、追いかけまわしてるって」
と秀雄は言う。
浩はようやく視界が戻ってきた。目の前の夏実を見つめると、見返す娘の目はとろんと虚ろで、頬も熟した果実のように赤い。
「夏実、おまえ、ひどく酔ってると?」
夏実は浩の首に両手を回し、
「なあん、酔ってなんかいないよお」
と官能的なまなざしになって、だらしなく言う。
「ちくしょう」
浩は長椅子に手を当てて立ち上がり、秀雄を睨んだ。
「何で、まだ二十歳の娘を、こんなに酔わせたあ?」
熱い怒りの声を、血を吐きながら秀雄に浴びせた。
秀雄は悪魔のように口を吊り上げて笑った。
「だったら何なんだ? わたしを殴るつもりか? そんなにフラフラなのに?」
浩はボクシングの構えで、一歩踏み出した。
「もう勝負はついているんだよ」
と言って、秀雄は殴りかかってきた。
それを右に避けながら、左の拳を鋭く突いた。これなら当たった。
驚いて下がる秀雄を追いながら、左ジャブを連打した。続けてヒットし、秀雄の口も出血した。
両手で顔を覆った秀雄を、右拳で殴ろうとしたした時、夏実が割って入った。
「もう、やめてえ」
止められた浩はぶるぶる震えていた。
抱きついた夏実の目は、酔いが覚めたように必死に見開いていた。
「あんなすごい絵を、いくつも描いたあんたが、暴力振るわんでえ」
夏実の後ろの秀雄が、ワインボトルを振り上げるのが浩には見えた。
「夏実」
娘を抱きしめながら体を入れ替えて守った瞬間、頭がバーンと爆裂して、目の前が真っ暗になった。
砕けたボトルの赤ワインが、崩れ落ちた浩の頭に垂れていた。だけど髪を染めるのは溢れ出した血に違いなかった。
割れたボトルのガラスの刃で追撃しようとする秀雄を見て、キャアキャア叫んでいた夏実が身を挺して守った。
「ああ、ひろしー、ひろしー、死なんでえ、あああ・・」
唇や頬を血まみれにして、狂ったように傷口を押さえる。
「夏実ちゃん、きみは、そいつのことが、そんなに・・」
そう言う秀雄を鬼の目で睨み、夏実は涙を散らしながら絶叫した。
「何ば言うよっとかあ? 早よ救急車、呼ばんかあ。おまえは、殺人犯になりたかとかあ?」
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