27

 浩が十三階へ昇る十八分前、その階のスイートルームの一室に、夏実は招き入れられた。

 八種のフルーツが盛られたパフェと赤ワインが、リビングのテーブルに用意されていた。

「夏実ちゃんだけのための、特製パフェだよ」

 と、椅子に夏実を座らせながら、秀雄は言った。

 夏実の目がシャンデリア光を浴び、ハートに輝いた。

「わあ、これが世界一あまーいバフェなのね」

 秀雄は夏実の向いに座って、ワイングラスに赤ワインを注いだ。

「夏実ちゃん、もうお酒を飲める歳だよね? さあ、乾杯だ」

 グラスに手を伸ばしながら、夏実は男の彫りの深い目を見つめた。

「何に、乾杯するんですか?」

「おいしい女のために」

「変なこと言わんでください」

 グラスを合わせ、一口ずつ飲んだ。

「これを食べたら、おいしい女になるんだよ」

「嫌だわあ」

 夏実は、もう一口飲み、スプーンを取って、イチゴにソフトクリームを絡めた。食べるとすぐに、目を細め、笑くぼから「ウフッ」ともらした。

「ほら、もう、おいしい女になりかけている」

 笑いかける美男が、セクシーに見える。

「それを言わないでえ」

 頬が熱くなる。ワインを勢いで飲みほして、赤面をお酒のせいにしようとする。

「子供なんだね」

 また魅惑的な笑顔で攻めてくる。

「もうワインも飲める大人ですよ」

 甘酸っぱい幸せで誘惑するメロンとパイナップルを一緒に食べた。そして椅子に深くダウンした。

「おいしい?」

「はい」

「それ、一緒に食べると、どんな味?」

「めろんめろんで、ぱいんぱいん」

「うわあ、もうすっかりおいしい女だ」

 感動的に言いながら、秀雄は夏実のグラスにワインを注いだ。そしてやさしい目で娘を包み込み、こう続けた。

「今日の夏実ちゃんは、痛いくらい魅力的だよ」

 娘は生クリームたっぷりの桃を食べた。

「どういう意味ですか?」

「瞳が愁いに満ちている。忘れたいことがあるなら、ぼくが何もかも忘れさせてあげるよ」

「忘れたいことなんて・・」

 言葉の続きを呑み込むように、やけっぱちでグラスを開けた。

 男は微笑みながらまたワインを注いだ。

「忘れたい男がいるのなら、これを飲めば、忘れられる」

 揺れるワインレッドを見つめる目が潤んだ。グラスを置き、種無し巨砲にグランベリーを混ぜて食べた。

「どうやら、忘れたくない男が、いるようだね?」

 男の言葉に熱い胸を突かれ、夏実はまたグラスを手に取る。

「そんなやつ、いないもん」

 胸にワインを流し込んだ。

 いつのまにか、男の椅子が隣に密着している。

 気づかぬうちに、心を包み込むように肩を抱かれている。

 燃える頬に、男の指が溶ける。

「ぼくがきみを、愛するから」

 気がつくと、目と目が絡み合ってほどけない。

 夏実は問わずにはいられない。

「あたしだけ? あたしだけ、愛しとると?」

「きみだけ」

 溢れ出す涙が止められず、男の胸に顔をうずめてしまう。ほとばしる鼓動に抱かれ、突然、体が宙に浮いた。大きな腕に抱きあげられ、揺れながら奥の部屋へ運ばれる。酔いの中で、浩の部屋に干してあった女性下着が頭の奥で揺れている。柔らかなベッドに投げ出されて、ハッとする。

「だめえ」

 と言葉をもらす自分に気づくが、男の体が上に乗ってきて動けない。触れ合う足が敏感になっている。

「だいじょうぶだから」

 髪を撫ぜる男の声が耳をくすぐる。

「でも・・」

「もう、逃げられないよ」

 男の指が頬から首を燃やし、鼓動爆打つ胸へと滑る。同時に耳元の唇が夏実の唇へ近づいてくる。

『ああ、もう、逃げられない・・』

 震える目を閉じた。

 その時チャイムが鳴った。

 目を開けると、男の顔が眼前にあった。

 もう一度チャイムが響き、男は夏実を離れ、リビングへ向かった。

 秀雄がドアを開けると、野田が伊藤の前に立っていて、低いがよく通る声で報告した。

「田口浩という男が、ホテルを訪ねて来ました。野崎家に出入りしている者です。北野さんは外出中だと言って、追い返しましたが、今夜また来ると言っています。いかがいたしましょう?」

「浩が?」

 と言ったのは、秀雄の後ろへ駆け寄った夏実だった。

 秀雄は二人の部下をリビングへ入れた。腕組みをして部屋を歩き、夏実を見た。

「田口浩・・お兄さんに、戦争の絵をすすめた男だね?」

 夏実は黙ってうなずいた。それから自分の頭を小突き、首をぶるっと振って、目を見開いた。

「そいつが、何の用で尋ねて来たんだろう?」

 秀雄の目が、夏実の瞳の奥を見つめた。

 夏実は口を閉ざしたまま、首を振った。

 代わりに野田が言った。

「野崎画伯の絵のことで、北野さんにお話しすることがあると、言ってました。それから、この部屋の番号を聞かれました」

「教えてはいないだろうね」

「もちろんです。かわりにわたしらの部屋を教えました。わたしを通して、北野さんに会うようにと」

 夏実が口を出した。

「会わんでください」

 秀雄がもう一度夏実の瞳を覗き込んだ。

「どうして?」

 夏実は視線をずらせなかったが、焦点は遠くへぼかされた。

「あいつは、あたしの、追っかけ、なんです。きっと、あたしを、追って来たとです。あんなやつ、無視してください」

 秀雄の目が険しくなった。

 彼は二人の部下に視線を移し、重い声で告げた。

「今夜また来たら、丁重におもてなしをしてあげなさい」

 野田は鋭い目で見返し、

「はい、丁重におもてなしをして、二度と付きまとわないようにします」

 野田が薄ら笑いで片手を上げると、二人の巨漢は一礼をして部屋を出て行った。

 秀雄は夏実の手を握り、うつむいて何やら考え込んでいる娘を熱く見つめた。

「飲みなおすかい? それともベッドに戻る?」

 夏実は首を振った。

「もうふらふらで、世界が回りかけています。これ以上、飲めません」

 その言葉が火をつけたのか、秀雄は想像以上の力で娘の手を引いた。

「キャア」

 悲鳴がベッドルームへ運ばれ、体が宙を飛んでベッドではねた。気づいたら、また男に食いつかれていた。

「キャア、キャア・・」

 ただ悲鳴だけが炎上する意識の外で響いた。男の唇と舌が、首すじを襲い、耳へと上がってくる。再び心臓が機関銃を乱射されたように高鳴った。耳から体の奥へ入ってくる吐息の熱さに痺れた時、胸をつかまれた衝撃で体がビクンと引き攣った。

「あああ・・」

 溢れ出る声の裏に、何かの音がしたが、娘には分からない。

 それでもその音は繰り返され、やがて男の体が離れた時、またチャイムの音が響いているのだと知覚した。




















 






















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