23

「どこへ行くの?」

 身支度をする浩に、佑子が悲しい目で止めた。

「野崎正太の、絵の手伝いに・・毎日、行ってるとやけん」

「あの女を追いかけるのね?」

「そうだよ。夏実のところへ行く」

 浩は毅然と告げて、娘の腕を振り切った。

「やっぱり、あの女が好きなの?」

 背中に投げつけた問に答はなく、壊れかけた扉が閉じられる不協和音が響いた。続いて錆びた階段を揺るがす足音を聞いた佑子は、一人、古畳に座り込み、つぶやいていた。

「ばかなやつ」


 北野秀雄が野崎家に着いた時、夏実は不在だった。

 秀雄は居間へ上がり、上機嫌で正太に話した。

「今日、夏実ちゃんと食事をするんですよ」

 正太は首をひねり、

「しょ、しょくし、とこて?」

「セントラルホテルを予約しています」

「せ、せんと、らほ、てる?」

「ほら、ぼくが博多に来た時、いつも泊ってるホテルですよ。何度か行ったでしょう?」

 正太は難しい顔をして首を振った。

「せんとら、ほてる・・おいは、ひろしくん、くるから、いかない」

「今日は、ぼくと夏実さんの、二人きりのデートなんです。でも、ひろしくんって、あのひどい絵を描かせた男ですね? そんなやつと、会っちゃいけないですよ」

 正太の眉間に泣きそうなしわが寄った。

「ひろしくん、ともたち。ともたち」

 秀雄も眉間にしわを寄せ、正太の肩を叩いた。それから笑顔を作り、真面目な声で聞いた。

「ところで、夏実ちゃんは、ぼくのこと、どう思ってるんだろう?」

 正太はうなずきながら答えた。

「なっちゃん、ひ、ひておさん、すき」

 秀雄はほくそ笑んだ。

「本当? きみは噓をつかないもんね。じゃあ、今日、プロポーズしてオーケーだね?」

「ひておさん、なっちゃんに、ふ、ふろほーす、する。ふろほーす、する。ひておさん、ふろほーす、って、なに?」

 秀雄は両手の指でハートを作り、胸の前でドキドキ動かした。

「求愛だよ」

「きゅ、きゅ、きゅう、あい?」

 正太の目が四角く膨らむ。

「そうだな・・簡単に言うと、抱きしめて、チューすることだよ」

「た、たき、しめ、てちゅう?」

 首をひねる正太にも分かるように、秀雄は彼をやさしく抱いた。正太の目が丸くなったが、抵抗の気配はない。

「こうするんだよ」

 顔を寄せて、キスのしぐさを教えた。

 ふいに夏実の悲鳴が聞こえた。

 秀雄が振り向くと、夏実は入ってきた部屋を慌てて出ながら、

「あたしは何も見てないから」

 急いで秀雄は追いかけた。

「夏実ちゃん、帰ったんだね」

「あたしは何も見てないから、どうぞご自由に」

「ぼくはお兄さんに、プロポーズの意味を教えていただけなんだよ」

 夏実は振り返らず、立ち止まりもせず、

「秀雄さんって、誰にでもプロポーズするんですね」

「誤解だよ。ぼくはきみ以外にはプロポーズしないよ」

「嘘をつくと、口が伸びるんですよ」

「何だい、それ?」

 と指で唇を押さえながら秀雄は聞く。

「ピノキオ、知らないんですか?」

 なんて聞き返すので、秀雄は指を鼻にずらしながら言った。

「嘘なもんか。ぼくにとって、女性は、夏実ちゃんだけだよ」

「本当ですか?」

 夏実は玄関を出ても振り返らない。

 秀雄は鼻から手を離し、伸びはしないが曲がってゆく口で言う。

「本当だよ」

 通りの向うから駆けて来る浩の姿が、涙の涸れた赤い目に飛び込んできた。

「あっ」

 彼の方へ駆けだそうとした足が震えて止まった。

 怒りと悲しみに声も震えた。

「だったら、早く連れてって」

「えっ?」

「秀雄さん、ごちそうしてくれるんでしょう? どこへでも、連れてって」

「ああ」

 秀雄も浩に気づいてうなずき、乗って来た黒のワゴン車の助手席を開いて夏実を招いた。

 車が爆音を吹かして発進した時、夏実を呼ぶ声が聞こえた。叫び声と足音が街にこだました。バックミラーに追いかけて来る男が映った。涸れたはずの涙がどっと溢れ出た。それでも夏実の心には追いかけて来る浩しか見えなかった。秀雄がさらにアクセルを踏み込み、壊れた運命の歯車が狂いだすようにエンジンの回転数がリミットへ吼えた。そして地獄の果てまで追ってきそうな勢いの男を消し去った。





















 

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