22

 翌日の昼、秀雄が迎えに来る前に、夏実は家を飛び出していた。

「もう一度だけ・・もう一度だけ確かめないと・・」

 燃える赤のコートが、冬風を切り裂いた。


 新樹荘では、アルバイトから帰った浩を、佑子が昼食を作って待っていた。

 部屋の中に干してあるヒョウ柄の下着を見て、浩は注意した。

「こんなもの、目の毒じゃないか」

 佑子は平然と男を見つめる。

「洗わない方がよかったですか? わたしの汗臭い下着が、好みなの?」

「家に帰って洗えばいいやろ?」

「言ったでしょ、家出してきたって。体一つで来たとやけん、下着はこれしかないとです」

「じゃあ、今・・」

 口ごもる頬が赤くなるのを、佑子の挑発に満ちた目が捉えた。

「見ます? ほら」 

 服をめくり上げる悪戯な手を、浩の手が制した。

「それだけはやめて」

 佑子はうふふと笑い、急接近した浩にキスしようとした。

 浩があたふた離れると、佑子は炬燵の上のチャーハンとワカメスープを指して誘った。  

「お昼、作ったの。冷めないうちに、食べましょ」 

 二人、炬燵に足を入れ、浩が食べ始めると、佑子は思わせぶりに言った。

「わたし、昨夜から、ずっと気になってることがあります」

 浩は頬を染めたままチャーハンを黙々食べた。

 佑子はじれったそうに、

「ねえ、言っていい?」

「何を?」

「気になって、仕方がないことを」

 呑み込むように見開いた目を、浩はちらちら見返した。

「言っていいよ。止めたところで、どうせ佑子ちゃんの口は、勝手に動くけんね」

 佑子の口がアヒルになった、

「やっぱり言いません。やめときます」

 しばらく二人は静かにチャーハンを食べた。

 半分くらい食べて、佑子の膨れ上がった我慢は破裂した。

「ねえ、どうして聞いてくれないの?」

「何を?」

「だから、気になっていることがあるって、言ってるじゃないですか」

「だから、言っていいって、言ったよね?」

「あの人、誰なんですか?」

 浩が視線を上げると、見つめる佑子の目は発火点を超える熱さだ。

 心でキャアと叫びながら、浩はとぼけた。

「あの人って?」

「赤いコートの、かわいい女ですよ。昨晩、訪ねてきたでしょ? 部屋を間違えたと言って、ランチジャーを置いたまま出てい行った人です」

 浩はチャーハンを二口食べてから、

「野崎正太って、知ってる?」

「えっ? あの問題の画家の?」

「うん。おれ、今、彼の絵を手伝ってる。そしてあの娘は、彼の妹」   

「その人が、弁当を作ってくれるの?」

「昨日、シチューが余ったのかな?」

「浩さん、夜中にこっそり、食べたでしょ?」

 浩の胸がキャアキャア叫んだ。

「食べないと、夏実に・・」

 と言いかけて、唇を噛んだ。

 佑子の瞳は千度を超える炎だ。

「なつみ、って呼んでると? その人、どんな人なの?」

「どんなって?」

「性格よ」

「外見もだけど、性格も、佑子ちゃんに、似てる、かな」 

 佑子は眉をひそめた。

「そんなやさしい人には、見えんかった」

『ほら、やっぱり、似ている』と浩は胸でつぶやいて、

「どんな人に、見えた?」

「生意気そうだった」

「それは当たっている」

「わたしは、しっかりしてるけど、あの人は、ふらふらしていそう」

「すごいな。それも当たっている。佑子ちゃん、一流の占い師になれるかも」

「言いたくないけど、あの人、魔性の女だわ。浩さんを、誘惑してるでしょう?」

 炎の目が殺気立つ。

「それは、違う。あの娘には、好きな男がいるし、その男から、プロポーズもされてる」

「あらあ、浩さん、残念ねえ」

「何で?」

「だって、浩さん、その人が好きなんでしょう?」

 心がキャアキャアキャア悲鳴をあげた。

「あ、あんな、短気な、暴力女・・」

「暴力女?」

「もう、何回も、叩かれたし、昨夜なんか、大事なところを・・」

 閻魔の目に睨まれ、浩は自分の失言に蒼ざめた。

「何の権利があって、わたしの大事な人を叩くのよ」

 佑子がそう吼えた時、戸口をノックする音が聞こえた。

「こんにちは」

 聞こえてきたのは、夏実の声だ。

「えっ?」

 凍りついた浩を残し、佑子が烈火のごとく立ち上がって玄関へ向かい、ドアを開けた。

 戸口に立つ娘のコートの色が、赤鬼を連想させた。

 見つめ合う二人の火花を浩は感じ、焼け焦がれそうだ。

「あら、昨日の人ね? 何しに来たの?」

 と尋ねる佑子の声は、相手を凍らせるほどの冷たさだった。

 夏実の唇がぷるぷる震えた。

「昨日、ランチジャーを、ここに忘れたみたいで」

 世界を凍らせるほどの冷笑で佑子は言う。

「知らないねえ」

 夏実の目が稲妻のような圧力で佑子を撃ち刺した。彼女も吹雪を呼ぶような口調でいきなり本題を尋ねた。

「ゆうこ、さん、でしたっけ? あんた、本当に、浩の恋人ね? あんたのことなんて、彼に聞いたことがないんだけど」

 佑子は鼻で笑って、夏実を手招きした。そして部屋の中を指さした。

 玄関に入って、指さす先に夏実が目撃したのは、干してあるヒョウ柄のブラジャーとショーツだ。夏実の微かな希望がごうごう燃え、絶望の炭と化した。

 勝ち誇ったように佑子は言う。

「わたしたち、昼間からいいことしてるのよ。だから、わたし、下に何も着てないとやけん。見る?」

「見せれるものなら、見せてみろよ」

 夏実の声は、女の意地で濁っていた。

 佑子の肩がピクッと震えた。だけど相手から目をそらさず、バチバチ睨んだ。そして服をめくり上げ、胸を張り、形のいい乳房を見せた。

 それを見た夏実は、鼻で笑い返した。

「勝ったね」

「んっ? 何言うよっと?」

 佑子の問いに、夏実はファスナーを下げて、コートの前を開いた。内はボディーラインが分かりやすい空色のセーターだ。

「何するの?」

 服を戻した佑子の白い頬がピンクに染まる。

 夏実は黙ったまま、佑子がしたように、セーターと中のシャツを一緒に、いっきにめくり上げた。そして爆弾を放つように胸を張ったのだ。

 佑子の目が驚愕の音を立てるように見開いた。

 佑子の背の向うの、夏実の紫のブラジャーに、浩の目は釘付けになった。

 耳まで赤くした佑子の声が震えた。

「浩さんが言ってたわ・・あんた、魔性の女だって」

 佑子を睨む夏実の目線が、後方の浩へ移った。その目が怖いほど見開いた。夏実は前へ突進し、呆然とする佑子を擦り抜け、浩の頬を引っ叩いていた。

「見たなあ」

「えっ?」

 と発しながらも、浩の目は揺れる胸から離れない。

「いつまで見てるの?」

 もう一発、ビンタの熱い音が炸裂した。

 夏実も頬を大炎上させて、服を下ろし、コートの前を閉じ、さらに両手で胸を隠した。

「だって、だって・・」

「だってもあさってもないんだよ。あたしが、魔性の女だというの?」

 浩は、ぶるぶる首を振り、涙目で無実を訴えた。

 佑子が割って入って、そんな浩を抱いて守った。そして夏実をむき出しの敵意で睨んだ。

「あんたは、暴力女、だとも浩さんは言ってたけど、本当だったのね」

 夏実は浩を見つめて聞いた。

「あんた、そんなこと、この女に言ったと?」

 浩は首を振れず、何も言えず、ただ悲しく見つめるばかりだ。

 佑子が彼を抱く手にぎゅっと力を込めて言う。

「わたしの浩さんを、今度叩いたら、わたしがあんたをズタズタにしちゃるけんね。だいたい、あんたには、婚約者がいるのでしょう?」

 赤くなった夏実のこめかみが、蒸気を噴き出しようにピクピク震えた。吐き出す声も、怒りと悲しみに震えた。

「浩、それも、あんたが言ったと?」

 浩はやはり首を振れず、何も言えず、涙を湛えた目で見つめるだけだ。

 夏実の目にも涙が込み上げ、彼女はそれを必死で耐えた。

「そうよ、あたし、秀雄さんと婚約するとよ。今日、今から会って、そうするけん・・それでいいんでしょう? 今、はっきり、決心がついたのよ」

 夏実が部屋を飛び出すと同時に、涙がどっと溢れ出た。階段を転げるように降り、滲みゆがんでゆく路地裏を駆けた。鼻水も止まらなかった。やがて、人目もはばからず、うおおお、うおおお、焼け落ちる屋敷のように号泣しながら走っていた。




















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