18

 浩が嫌いなジャガイモは買っていない。

 玉葱、人参、鶏肉、エリンギ、シメジ、アスパラガス、コーンを鍋で炒め、水を入れて煮込む。シチューの素を入れ、牛乳で仕上げた。

 兄に配膳するとすぐ、ランチジャーにクリームシチューとご飯を入れ、夏実は赤いコートを着て、夜道へ飛び出した。

「もう、ほんと、せからしかあ」

 と、ぼやきながらも、夏実の足は新樹荘へと動いていた。

 途中、小雪が舞いだした。

「ほんと、好かんやつ。何であたしが、あんたのために、こんなことしてると? もう、寒いけん、帰ろかねえ」

 新樹荘の近くに着いた時、通りから入ってきた黒い車が、助手席の窓を開きながら夏実の横に停車した。

「すいません。おれたち、福岡は初めてなんですが、天神は、どう行ったらいいですか?」

 と尋ねるのは、二十代のやさしそうなアイドル顔の男だ。

 前を指さし、夏はざっくり教えた。

「天神? 遠いなあ。とりあえず、向うの通りに出て、左折したら、三つ目の信号を右折して、三キロほど走って、また右折して、さらに三キロほど行ってみてください」

 アイドル顔は首をひねった。

「見当つかないなあ。どうだろう? 君が乗って案内してくれたら、帰りのタクシー代として一万円あげるけど、人助けと思って、案内してくれませんか?」

「一万円? ほんとに?」

 夏実の目が闇に光った。

「いいですよ。福岡人はやさしかとです。でも、この弁当を、そこのアパートに届けてきますので、ちょっと待っててください」

 新樹荘の錆びた階段を駆け上った。

 203号室のチャイムを押したが、反応がない。

「そうか、チャイム、壊れてるんだった」

 ノブを回してみた。鍵はかかっていない。ノックしてドアを開け、中に入ると、玄関に女性用のブーツがあった。

「はい」

 とノックに応えたのも、女性の声だ。

『しまった、部屋を間違えた』

 そう心で叫び声を上げながら委縮していると、色白で自分に似た娘が出てきた。年齢も同じくらいに見える。

「どちら様でしょうか?」

 と鼻にかかった甘ったるい声で聞いてくる。

「ごめんなさい、間違え、あっ」

 彼女の後ろに浩が現れ、夏実は目を丸くした。

「あ、あんたこそ、誰?」

 と夏実は目の前の娘に聞き返していた。

 色白の娘の目がにわかに熱を帯びた。

「宮本佑子といいます。浩さんとお付き合いしています」

 夏実の手から、ランチジャーが滑り落ちた。

「えっ? もしかして、一緒に住んでると?」

 浩が否定する前に、佑子は転がったランチジャーに目をやり、こう告げた。

「ええ、わたしたち、同棲しています。それで、あなたは、どちら様?」

「あたし? あたしは・・・・ごめんなさい、部屋を間違えたみたい」

 蒼ざめた声でそう言うと、ジャーも拾わず、夏実は部屋を出た。

「間違えた、間違えた・・」

 と力なく繰り返しながら、奈落へと続きそうな揺れる階段を降りた。

 薄暗い小道を魂を抜かれたように歩くと、停車中の黒い車の助手席のドアが開いた。

 アイドル顔の若者が下りて、後部ドアを開けながら誘いかける。

「さあ、早く乗って」

 夏実が気づかず通り過ぎようとするので、男は彼女の腕をつかんだ。

「えっ? 何? 何すっと?」

 甲高い声が暗がりに響いた。

 男は腕を離し、やさしく言った。

「おれですよ、おれ。あなたは、天神まで案内してくれるって、言ってくれた人ですよね? 赤いコートのかわいこちゃんだから、間違いない。もうお忘れですか? あれっ、泣いてるんですか?」

「知りません。あたし、今、怒りが爆発しそうなんです。近寄らんでください」

 去りかけた夏実の腕を、もう一度男がつかんだ。

「行かせないよ」

「何すっと? 離して。えっ? やだあ」

 振りほどこうとするが、男の力は信じがたいほど強固だ。足音が迫って来て、別の誰かも彼女のもう一方の手をつかんだ。

「ちくしょう」

 と叫びながら、夏実はアイドル顔の男の脛を蹴った。続けて以前浩と練習した膝蹴りを、もう一人の股間へ激突させた。

「ばかああ」

 その悲鳴に、夏実は聞き覚えがあった。

「えっ? あれっ?」

「夏実、おまえ、やっぱり、才能が・・」

 両手で急所を押さえて、ぴょんぴょん跳ねながら苦しむ男は、佑子を振り切って追って来た浩だった。

 黒い車の運転席から、別の男が下りて来た。。薄暗くてもあご髭が分かるくらい濃い、体重百キロもありそうな男だ。巨漢はいきなり夏実を怪物の力で抱きしめると、軽々落ち上げ、車へ運んだ。

「きゃあああ、浩、きゃあ、浩・・」

 助けを呼ぶ悲鳴に、浩は無我夢中でぶつかって行った。岩のような背にしがみつき、車の直前で引き留めた。大男は夏実を離し、浩を捕まえようとするのだが、くるくる回っても浩は背中に張り付いて離れない。

「夏実、早く逃げろ。くそお、こいつら、何なんだ? 早く逃げろって、言ってるやろ」

 浩の叫びに応じて、夏実は明るい通りの方へ走り出した。アイドル顔が追いかけて来る。

「いやあ、いやあ」

 叫びながら逃げたが、通りに出たところで捕まってしまった。

「きゃあ、きゃあ」

 絶叫しながら振り返り、男の股間に膝蹴りを入れた。蹴って蹴って蹴りまくっていた。

 歩道を歩いていた数人が駆け寄って来た。

 アイドル顔の男が逃げようとした時、勢いをつけた膝が急所に直撃した。大事な物が破裂された劇痛にうずくまろうとするが、体が硬直して動かない。戦慄の膝蹴りは容赦なく繰り返され、痛みと痺れが倍増し、思考を奪い取った。

「助けてえ」

 という赤いコートの娘の叫びを、男は自分の方こそ発したいのだが、口から噴き出るのは泡ばかりで、白目を剥いて暗黒へ崩れ堕ちて行った。

 一方、暗い小道では、浩は巨漢に腕をつかまれ、投げ倒されてしまった。すぐに起き上がりかけた彼の顔面を、大きな鉛のような拳が襲いかかった。ゴンっと脳裏が破壊され、壁に弾き飛ばされた。動こうとするが、手足がピクピク引き攣るだけだ。巨漢はさらに追い打ちをかけようと迫った。だけど、通りの方から駆け寄って来る複数の足音に慌て、車に乗り込んだ。そして通りで気絶した仲間を見捨て、黒い車は逃げ去ったのだ。

 上体を壁にもたれてぐったりしている浩に、娘が駆け寄った。地面に膝をつき、傷ついた浩の顔を胸に抱きしめた。

『夏実、大丈夫?』

 と浩は聞こうとしたが、声が出ない。

「浩さん、大丈夫?」

 と問うのは、夏実の声ではなかった。

 浩は夏実の胸ではないその体を両手で押し離そうとした。だけど体が痺れて動かなかった。


































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