17
新樹荘に帰り着いた浩が見たのは、彼の部屋の前に立っている黒いコートの女性だ。夏実のようだが・・・・
電球に照らされた頬が薄桃にほのめき、目も口も大きめの二十歳くらいの娘。肩まで伸ばした黒髪は、半ばから先にウエーブしている。
「浩さん」
少し鼻にかかった声で呼ぶ。
「佑子ちゃん・・何でここが分かった?」
203号室の前で、向かい合った。
佑子は目に涙を湛えて浩を見つめ、
「麻美さんに、教えてもらった。妹さん、浩さんのこと、心配してるよ」
「妹に聞いたのなら、ここでおれに新しい彼女ができたって、聞いてるやろ?」
「聞いたわ。本当はいないけど、そう言って、わたしにあきらめさせてくれって、言ってたって」
「あのばか」
「ねえ、寒いから、中に入れてください。ずっと待ってたとやけん、もう体の芯まで凍りついてるんだよ」
「若い女が、一人暮らしの男の部屋に入っちゃだめだよ」
その言葉が、佑子の目をかえって光らせた。
「あら、そんな法律、聞いたことないわ。わたし、浩さんとなら、どうなっても後悔しないから」
「どうなってもって・・じゃあ、全身秘伝のたれにつけて、蒲焼にして、食ってもいいと?」
「浩さんなら、平気だよ。わたしを残らず食べて、骨まできれいにしゃぶってね」
「それを聞いちゃ、絶対入れれん」
「入れてくれんなら、ここから飛び降りて、死んでやるから」
「二階から飛んでも、死ねないよ。だいたい、おれはね、会社を辞めた売れない画家で、きっと一生貧乏だよ。絶対後悔させる自信あるから」
「だったら、わたしが稼いで、あなたを食べさせるけん。夢のない人より、ずっといいわ」
「それを聞いちゃ、なおさら入れれん。佑子ちゃんを好きだっていう男を、おれ、三人は知ってるよ。三人とも、おれよりましな人間だ。おれは、どうしても立派な社会人にはなれん。かといって、佑子ちゃんに食べさせてもらうくらいなら、飢え死にした方がましやけん」
冬風に刺されながら、二人は睨み合った。辺りの闇はしだいに深くなっていった。
ついに佑子が覚悟を決めたような太い声で聞いた。
「どうしても入れてくれんと?」
浩はうなずき、
「おれのことは忘れて、久留米に帰ってくれ」
「ごめんなさい。それなら、奥の手を使います」
「奥の手?」
突然、佑子は夜を裂く大声で泣きだした。
「そ、それだけはやめて」
浩は手を出して彼女の口をふさごうとするが、佑子は身をよじって闇を壊す大音量でうおおお、うおおお泣き叫ぶ。
道行く人が振り返り、隣のドアが開いて隣人が覗いた時、浩は観念して鍵を開けた。
すると裕子は一転、笑顔になり、周りに謝罪の声を発した。
「みなさーん、すいませーん。演劇の練習をしていましたあ」
見つめる人々に頭を下げると、彼女は先にドアを開け、部屋に入ってしまった。
浩も「すいません」と隣人に頭を下げ、是非もなく後に続いた。
狭い部屋に、押し入れに入りきれない絵が並んでいる。
佑子はもう、炬燵布団をめくり上げて掃除を始めていた。
「やっぱりわたしがいないとだめね。最後に掃除したのはいつ?」
とぼやきながら、散らかったゴミをビニール袋に入れていく。
「年末大掃除をしてから、まだ一か月だよ」
浩は自慢げな声色だ。
「その年末大掃除の前は、いつ掃除したんだろ?」
佑子は箒を見つけて畳を掃き始めた。
「半年前、かな? どうだ、さすがにおれが嫌いになったやろ?」
佑子は口笛をひと吹きして、掃除を続けた。
「浩さんに新しい彼女がいないと確信できて、安心したよ。本当に恋人がいたら、こんな汚い部屋、ほっとくはずないよね?」
掃除を終えると、佑子は笑顔で浩の手を握った。
「わたし、お昼もまだ食べてないの。夕食、わたしが作るから、おかず、買いに行きましょ」
「夕食なら、ある」
浩は壁にかかった袋を指した。
中身はカップラーメンやカップ焼きそばだ。
佑子は眉をひそめたが、すぐに笑顔を浩にぶつけた。
「オーケー、浩さんと二人で食べるなら、これも最高のごちそうだ」
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