16
一月末の夕刻、帰宅した夏実は山が崩れるような足音で、正太と浩がいる奥の部屋へ直行した。
「お兄ちゃん、ミャアの絵を描いて。お願いだから、また、ミャアの絵を描いて」
となだれ込みながら言う。
正太はただ困惑の目を妹へ向けるばかりだ。
同じ部屋で絵を描いていた浩が聞いた。
「どうしたと? 夏実、また何かあった?」
夏実の目が牙を剝いて浩に咬みついた。
「あんたのせいで、収入のない月日が続いてるんだ。このままじゃ、あたしら、極貧生活に戻って、飢え死にするかもしれん。お兄ちゃんの絵、ぜんぜん売れんようになったとよ。展示会だって、もうどこにも断られてしまうんだから」
非難の目に、涙がにじんだ。
「やっぱり、何かあったんだね?」
「何かって・・だったら、あんたも、もっと絵を売る努力をしてよ。そしたら分かるわよ。毎日毎日、ひどいこと言われるとよ。お兄ちゃんの悪口、毎日聞くとよ。ちくしょう、こんな絵を描くから・・こんな絵、描くから・・」
戦争の絵を指さしながら、涙をこぼす。
「ごめんよ。おれのせいだね。だけど、世界のどこかには、この絵の意味が分かる人たちもきっといる。この絵で救われる人々も、きっといる。だから・・」
浩の懸命の言葉を、夏実がヒステリックに遮った。
「秀雄さんから、電話が来たの。秀雄さんが、助けてくれるって。お兄ちゃんが、また、ミャアの絵をいくつか描いたら、何とかしてくれるって。あの人、この業界ではすごい力を持ってるから、もう、彼に頼るしかないの。一週間後に、こっちへ来てくれるから、お兄ちゃん、ミャアの絵を描いて」
秀雄の名に、正太は目を輝かせていた。
「ひ、ひておさん、なっちゃん、に、ふろほーす、した。おいは、みゃあの、え、かく」
浩は夏実を見つめた。
「また、彼に、プロポーズされたの?」
夏実は震えるように首を振り、
「付き合ってほしいって、言われてるだけだって、何度言ったら分かると? そんなにあたしを、彼と結婚させたいの?」
浩も同じように首を振った。
「あいつだけはだめだって、何度も言ってるやん」
「あれえ、もしかして、やきもち?」
「な、何で?」
浩の動揺を見逃さず、夏実は口角を上げて笑った。
「役立たずで、貧乏神のあんたに、やきもち焼く資格なんかあると?」
正太が嬉しそうに話に入ってきた。
「おいは、や、やき、もち、すき」
浩は夏実から目をそらさなかった。
「役立たずの、貧乏神って、本気で思ってると?」
「役立たずの貧乏神で、ついでに疫病神じゃない。あんたのせいで、うちは破産しちゃうのよ」
浩は口を閉ざし、悲しそうに夏実を見ていた。
彼のかわりに正太が口を開く。
「おいは、やきもち、すき」
夏実も浩から目をそらさなかった。
「何ね? 黙っていないで、何か言ったらどうよ。ねえ、あ、あれっ?」
急に立ち上がった浩が、夏実の横をすり抜け、部屋を出た。何も言わず、玄関の方へ廊下を進む。
「ばかね、どこ行きよっと?」
夏実が後を追う。
浩は一言も発せぬまま、出て行った。
「夕飯、食べていかんと?」
と夏実は玄関を開けて問いかけた。
浩は振り返らなかった。角を曲がるまで、涙も拭かなかった。
「二度と来るなあ、ばかあ」
夏実の叫びが、黒くなっていく夕焼け空に響いた。
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