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 数日後、夏実は浩の説得に応じ、北野秀雄には内緒で、地元の新聞社に野崎正太の新作絵画の完成を伝えた。

 新聞からテレビ、ネットや雑誌などへ連鎖し、日本軍の大陸侵略を想わせる悲惨な五つの絵が報道された。

 それらは誰も見たことのない、人間の圧倒的な悲しみや怒りを訴えかける絵だ。    絶望を叫ぶ目でこちらを見る人々の体から、数知れぬ肉片がちぎれ飛んで画面から溢れ出し、観る者に襲いかかった。人が人を殺して英雄とされた時代の、殺される者たちの苦悩だけではなく、殺す者たちの心の奥底の深刻な罪と罰も告発していた。それらの絵は、浩が父に見せられた物と同じ構図なのだが、そこから浮かび上がる絶唱は、まったくの別物だった。絶唱、と表現したが、歌に例えるなら、詞や曲は同じでも、歌う人が少し上級の歌手か、その者の歌を聴けば誰もが涙する天才歌姫かでは、聴く者の感動は大きく違ってしまうのと同様だ。父の絵を模した田口浩も、一流と呼べるレベルの画家と言えるが、野崎正太は桁違いなのだ。心の深層から湧き出る物が別次元なのだ。

 だけど、正太の絵の衝撃は、しだいに賛よりも否の方が大勢を得るようになっていった。

 中学時代に、正太が描いたいじめの絵が、浩や信雄たちに非難を浴びたように、祖父などが犯した罪を描くことを快く思わない日本人たちが声を上げ始めたのだ。戦争で人を殺した多くの者が、自分の行いを正当化し、浩の祖父や父のような贖罪の意識に悩む者はほとんどいなかった。正太を国を代表する新鋭画家だと推奨していた政府も一転、問題の絵を圧殺するようになり、『愛国者』を名乗る一部の集団から出た『売国奴』『非国民』などの糾弾に、民衆が踊らされるようになると、それに同調するマスコミも増え始めた。ネットの非難の書き込みも、増殖する津波のように押し寄せた。一流と呼ばれる評論家たちさえも、浩が気づいた正太の絵の真の秘密には誰も触れなかった。そして人々は『本物』に目を向けなくなり、結局、野崎正太の絵は、問題の絵以外も売れなくなった。それどころか、以前買った正太の猫の絵を焼いてしまう動画も、ネットで流されたりもした。北野秀雄の言葉通りになったのだ。


 枯葉に身を隠して生きるような長い長い秋が過ぎ、寒すぎる冬が来た。

 年が明け、一月半ば、放射冷却の凍れる朝、川沿いの公園を正太が散歩していた。

 彼の隣には、梅屋うどんの店員の真鍋優が、腕をつかんでくっついていた。

「ねえ、正太さん、どうしてあんな絵、描いたと?」

 そう優は尋ねた。

 正太は顔じゅうしわくちゃにして首を傾げた。

「あ、あんな、え?」

「戦争の絵」

「せんそ?」

「人が人を殺してる絵だよ」

 正太は、ああ、ともらして、しばらく考え、

「ひとが、ひとを、ころしちゃ、いけない、って、ひろしくん、いってた」

「あの絵と、浩さん、関係あるの?」

 丸い顔どうしが、つぶらな目で見つめ合った。

「おいは、ひろしくん、と、いっしょに、え、かく」

「一緒に?」

 正太の視線が青空へと動いた。嬉しそうに笑う。

「この、そらにも、か、かならす、ほし、ある、って。おいは、ひろしくん、と、いっしょに、ふ、ふたりの、ほし、さかす」

 優も空を見上げた。

「何、それ? 青空に、星があると? 二人の星って何?」

「き、きえろー、きえろー」

「きえろー」

 見上げたままの正太に、優は視線を戻した。

「うん、きえろー、みつけて、ふたりは、ほんとうの、ともたち、なる、や、やくそく、した」

 正太に合わせて、優も笑った。

「きえろー、見つけたら、正太さんと浩さんが、本当の友だちになるのね? すごいね。意味分からんけど」

「た、たとえ、みえなく、ても、か、かならす、ある、って、あいたっ」

 突然、正太の額に何かが爆発した。衝撃に縛られ、彼は地蔵のように固まった。額にくっついた白い物から、黄色っぽい何かがゆっくり流動するのを、優は口に手を当てて見ていた。やがて彼女のむき出しの目が、去り行く自転車に向けられた。

 二人乗りの後ろの少年がこちらを見ていて、言葉を投げつけた。

「非国民」

 中学生らしき制服を着ている。

 優は目を吊り上げて追いかけた。

「こっらあ、待たんかい、クソガキがあ。非国民、って、いつの時代の言葉じゃあ? わたしの大事な人に卵をぶつけるなんて、古い韓ドラかあ? 警察に突き出してやる」

「やべえ、デブが追いかけて来る」

 そう後ろの少年が言うと、優が追いつく前に自転車がスピードを上げた。

「何ちやあ? 言っちゃいかんことを」

 怒りに任せて追いかけるが、逃亡者はどんどん離れてしまう。

 三分後には心臓が緊急事態を発令し、息が切れて走れなくなった。攣りかけた足を引きずりながら、正太の元へ戻った。

 正太はベンチに座って、公園の横を流れる川を見ていた。ベンチの前に、卵の殻が落ちていた。

 優も隣に座った。

「大丈夫? 痛くなかった?」

「いた、かったあ。けと、な、なにか、おきた?」

 優は正太の額を拭くために、ポケットをまさぐった。今朝に限ってハンカチもティッシュも持ってきてない。

「正太さんが描いた絵をやっかんで、ひどいことしたとよ」

「やっかん? ひとい、こと?」

「この世には、正太さんが描いた絵のように、悪い人もいるとよ」

「おいは、ここか、きもち、わるかあ、とけん、なっとーと?」

 正太は、生卵の中身が粘りついた額を指した。

 優は悲しい顔で言った。

「どげんもこげんも、割れちゃって、中身が垂れよるとよ」

「おいの、あたま、われて、なかみ、たれてる、と?」

 正太もこの世も終わりという顔になった。そしてガタガタ震えだした。

 優は彼を抱いて、その額を舐めた。

「かわいそうに。わたしが、きれいにしちゃるけん」

「おいは、しぬと?」

「死なん、死なん。わたしが舐めたら、元に戻るとよ」

「ほうとう、ね?」

「本当だよ。わたしが、正太さんを、守るから、心配せんで」

「おいの、あたまの、なかみ、は、とけな、あしね?」

「おいしいよ」

「ほんとう、ね?」

「頭の中身は、味噌の味がするから、脳みそって、言うとよ」

「ゆう、ちゃん、なんても、しってる、ね」

「うん、わたしが、何でも知ってるから、正太さんは、なーん心配いらん。ほら、もう、すっかりきれいになったよ」

 優が卵を舐めてしまった額を、正太は手で触って確かめた。

「うわあ、ゆうちゃん、すこかあ」

「あたりまえたい」

 優は正太にキスして、抱きしめた。

 


 











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