14

「あっ」

 石像のように固まって、夏実は秀雄と目を合わせた。

 だけど三秒後には居間を駆け出し、玄関へ直行したのだ。

 靴を履くなり、玄関を開け、浩の腕を強引につかむと、裏通りへと引っ張った。

「何? どうした?」

「いいから、いいから・・」

 手を引いて、狭い路地裏を深く進んでいく。

「誰か来てると? 黒い靴があったけど」

「そうなの。あんたは会わんほうがいい人が家にいるの」

 浩の指が夏実の火照った頬に触れた。

「頬が熱いよ。何かされたと?」

「ばか、さわらんでよ」

「誰が来てると?」

「北野秀雄って、分かるやろ? お兄ちゃんの絵を売ってくれた美術商だけど、新しい絵が完成したことを知らせたら、東京から来てくれたとよ。だけど、あんたの絵を元にお兄ちゃんが絵を描いてるなんて知れたら、やばいでしょう? だから、あんたは、会わんとって」

「北野秀雄? だったら、よけいに戻らなくちゃ」

「どうして?」

「正太が、何もかも、しゃべっちゃうかも」

「あっ」

「さあ、行こう」

 今度は浩が夏実の手を引いて、来た道を戻った。歩きながら、目を見ずに聞いた。

「ねえ、夏実、その秀雄さんって、夏実にプロポーズしている人だよね?」

「何言うと?」

「そう、正太が言ってたじゃない?」

「ただ、付き合ってほしいと、言われてると」

「それで、何て、返事したと?」

「考えさせてって」

 野崎家が見える所まで戻って、立ち止まった。

 とび色の大きな瞳を、奥まで見つめた。

「いいかい、夏実、そいつだけは、だめだ。もう、二人っきりで会わないで」

「あら、彼は、あんたなんかより、ずっと紳士よ」

「うわべだけだよ。襲われそうになったら、どうやって身を守るか、知ってると?」

「どうするの?」

 浩は夏実の目を見つめたまま、両肩をつかんで彼女の股間に膝蹴りを食らわせる振りをした。

「こうやって、男の急所に膝蹴りをぶち込むとよ。さあ、一回、おれを使って、練習しな」

 夏実は目をむき出して浩を睨んだ。一瞬身を引いたが、思い直して男の両腕をつかみ、膝を突き上げ、直前で止めた。

「これでいい?」

「すごい、そうだよ。夏実には、才能があるよ。相手が撃チンして泡を吹くまで、何度も蹴り上げるんだ」

「こう?」

 夏実は勢いをつけ、何度も寸止めした。

 危険を感じて悲鳴を上げる下半身を引きながらも、浩は強がった。

「すごい、すごい。夏実は撃チンクイーンになれるよ」

 夏実は腕を離したが、なおも怖い目から火花を散らしていた。

「でも、秀雄さんにだったら、あたし、襲われてもいいんだから。彼は、あんたより顔もスタイルもいいし、やさしいし、何より、お金持ちなんだから」

「おれと、天秤にかけんでよ」

「かけんかけん・・相手にならんから」

「何だよ。おれは天秤にかける値打ちもないほど、軽い男なん?」

 夏実は、うふふと笑いをもらした。

「軽い軽い。秀雄さんの髪の毛一本の重さもないけん」

「さては、さっき夏実が顔をリンゴのように真っ赤にしてたのは、やつと何かあったとやね?」

 浩も頬を熱くした。

 夏実の頬も再燃焼した。

「せからしかあ。何言いだすと?」

 浩は夏実の腕を取って、野崎家から離れる方へと引っ張って歩き出した。

 夏実の足は錆びついたローラーのように重かった。

「何ね? 家に戻るんじゃなかったと?」

「夏実が『せからしか』って言うのは、図星ってことやん」

「せからしかあ。何でそんなこと分かるのよ?」

「何でって、半年間、毎日、付き合ってきたとよ。夏実のことは、夏実以上に分かるから」

 夏実の目の火花が強くなった。

「そんなわけないじゃない。だいたい、いつ、あたしがあんたと付き合ったと? 変なこと、言わんでよ」

「毎日会って、正太のサポートを一緒にしてきたやろ? そういう意味で言ったとよ。夕飯だって、毎晩一緒に食べてるし」

 浩の声にも怒りが混じってた。

「夕飯って・・もう、あんたの分、作らんけんね」

「ああ、そんなら、作らんでよか。今日から、おれ、何も食べずに生きていくから」

「何も食べんなら、生きていけんやろ、ばーか」

「そんなら、今日から、おれ、何も食べずに死んでいくとよ」

「そげん言うなら、早よ死なんね。ばかは死ななきゃ治らないのよ」

「ばーか、人間、そげん早よ死ねんとよ。水だけでも、一か月生きれるっていうやろ」

「そんなら、水だけで生きて、一か月後に死なんね」

「ああ、おれは、一か月後に死ぬとたい。夏実のせいで、死ぬとたい」

「かわいいあたしのために死ねて、あんた、幸せやろ?」

「夏実のような性悪女のために死ぬんだよ。やっと日の当たる場所に出たら一週間しか生きられないセミみたいに不幸やろ?」

「あんたにセミの幸せの何が分かると言うとね? 早よ、セミにあやまらんね」

 浩は辺りの樹木を見やった。

「あやまりたいけど、秋風の吹く季節に、セミはおらんけん」

「見えなきゃおらんとね? セミたちは何年も土の中で幸せに暮らしてるとよ。中卒のあたしでも、それくらい知ってるのに」

 いつしか、浩の目じりに笑みの横じわが浮かんでいた。

「見えもしないのに、夏実には、土の中のセミの幸せがわかるとやね?」

「きっと、生きる、ってことが、幸せなんよ。以前は、生きることは、辛くて悲しいことばかりだったけど、お兄ちゃんの絵をずっと見てきて、そう思うようになった」

「だったら、おれも・・」

 浩はまた夏実の手を引いて歩きだした。

 そして、前を向いたまま続けた。

「おれも、最近、生きることが幸せだと知った・・・・夏実と一緒に生活するようになって」

 うふっと笑いがまたもれた。

「やっぱりそう? 世界で一番やさしいあたしと生活できて、幸せ?」

「世界で一番やさしい娘に、何度も叩かれたおれって、何?」

 娘の空いた手が伸びてきて、浩の頭をぽかりと叩いた。

「世界で一番やさしいあたしが、いつ、叩いたのよ?」

「たった今、叩いたやん」

 浩も空いた手を振り上げて叩き返そうとした。

 夏実は絡んだ男の腕を振りほどいて、きゃあきゃあ逃げた。十歩ほど駆けて、あかんべえ、と舌を出した。それからまた走りだそうとした。だけどあきれ顔の浩が追ってこないので、ちらちら振り返りながら、ゆっくり歩いた。

「ばーか」

 ポケットに手を入れ、浩も一歩一歩、後を歩いた。

「ばーか」

 という言葉が色を変え、樹木から離れた紅葉と一緒にひらひら舞った。





























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