13
「こんな絵に、誰がお金を払うと言うんだい?」
と野崎家の居間で、美術商の北野秀雄は聞いた。腕組みをし、正太の五つの新作に眉をひそめている。
空色のワンピースの夏実が、男の腕を指先で突いた。
「いじめの絵を見た時も、秀雄さん、同じことを言われましたよ」
秀雄は俳優のような目力で二十一歳になったばかりの娘を見つめ、首を振った。
「それは、いじめが社会問題になってるから、運よく話題になったんだ。だから、人権教育のため、中学の美術の教科書に載せようという運動まで起きている。でもね、これは、違う。こんなものを発表したら、それも台無しになっちまうよ」
「こんなものって・・お兄ちゃん、今までで一番苦心して描き続けてきたんですよ。こんなすごい絵、世界のどこにもないでしょう?」
「とにかく、これはだめ。誤解を招くよ」
「誤解って?」
「日本軍の東アジア侵攻の絵と見られたら、この国では、絵を売れなくなるよ」
「誤解じゃなくて、まさにその絵です」
「だったら、なおさらだめじゃないか。いいかい、この国は、今でも天皇陛下様の国なんだ。日本は昔、列強と呼ばれる大国からアジアを開放するために戦ったんだよ。結果として、アジアの国々は今、独立できてるじゃないか。それなのに、この絵ときたら、この国のために命を捧げた戦士たちを、侮辱してるじゃないか。今や、野崎正太の絵には、数百万の値が付けられようとしてるのに、もう売れなくなるよ」
秀雄の怖いほど毅然とした表情を、夏実はじっと見つめた。
『あたしが何を言っても、この人、意見を変えない・・』
と彼女の直感が訴えていた。
「分りました。これらの絵は、当分、しまっておくことにします」
と折れた。
「いや、待てよ・・」
秀雄が首を傾げ、絵に見入った。
「この絵、昔、見たことがあるぞ」
「それらの絵は・・」
と言いかけて、夏実は口を閉ざした。
「これらの絵が、何?」
「いえ、何でもないです・・これらは、あたしが、処分しときます」
男の手が伸びて、栗色のくせ毛をやさしく撫ぜた。
「ごめんな。これも、野崎正太の成功のために言ってるんだ。そして、かわいい夏実ちゃんのためにも」
「分ってます。秀雄さんがいなかったら、あたしら、借金まみれの生活から、抜け出せなかったんですから」
そう言いながらも、夏実は頭を引いて彼の手から逃れた。
「おや、なぜ逃げるんだい? さては好きな男でもできたんじゃ?」
「ま、まさかあ、変なこと、言わんでください」
「そんなに顔を赤くするところを見ると、図星だな」
驚いた顔で、夏実は火照る頬を手のひらで押さえていた。
「何言うんです? そんなわけないですよお。秀雄さんが、変なこと言うけん」
男の手が伸びて、もう一度やわらかな髪を撫ぜた。やがて、その指が下りて、頬を押さえる娘の指に触れた。
「だったら・・」
震えだした細い指に太い指を絡める。
「だったら?」
「そろそろ、返事を聞かせてくれないか? ぼくの気持ちは、ずっと夏実ちゃんだけなんだから」
「でも、東京に彼女が何人もいるって、聞いたわ」
大きな目で睨む娘に、男は少し微笑んだ。
『東京だけじゃない・・』
と心でつぶやきながらも、
「そんなの嘘だよ」
と笑って、逃げようとする指を捕まえる。
そして言葉を失った娘に、追い打ちをかける。
「ぼくが本当に好きなのは、夏実ちゃんだけだよ」
やさしく引き寄せる手の力が、巨大な津波のように感じられ、
『逃げられない』
と娘の心臓が叫ぶ。
熱い視線がスローモーションで近づいてきて、その叫びが胸を炎上させる。
『いいだろ?』
と男の目が呼びかけている。
『この男は、こういうことに慣れてるんだ』
と娘の心が叫ぶ。
涙が溢れだしそうだ。感電したように体が動かない。
『もう、呑まれるしかない・・もう、目を閉じるしかない・・』
閉じた目から涙がこぼれ出た時、聞こえてきたバタバタという足音に、我に返って突き放していた。
「ひ、ひてお、さん、こんにちわ」
居間に飛び入って来た正太が、にっこり笑った。
「ああ、こんにちわ。久しぶりだね」
何事もなかったように、秀雄も笑った。
妹の動揺を感じ取った正太が、あまりにもじろじろ見るので、
「何ね?」
と夏実は問う。
正太は目を細め、
「ひておさん、なっちゃんに、ふろほーす、した?」
「ばか、何言いだすと?」
と夏実が裏返りそうな声を出す。
「なっちゃん、かお、まっかっか・・」
「せからしかあ。知らん、知らん」
夏実は居間から逃げ出した。
「野崎画伯、また、驚愕の絵を描いたねえ」
と秀雄が五つの絵を指して言った。
正太は首を傾げた。
「きょ、きょうかく?」
「びっくりする絵、という意味だよ」
「ひっくり?」
目を見開いたまま笑う。
「でもね、夏実ちゃんにも言ったけど、もう、こんな絵は、描かないでください。せっかくの才能が埋もれてしまいます」
正太は顔をしかめて首を傾げた。
「ひろし、くん、このえ、かいて、いった。たから、おいは、かかなくちゃ」
「誰だい、そのひろしって?」
正太はぶるっと肩を震わせ、頭を抱えた。
「あ、あ、ひろしくん、ともたち。む、むかしからの、ともたち。たけと、このこと、ないしょ。ないしょ・・」
「つまり、この絵を、描かせたやつがいて、そいつがひろし?」
詰め寄る秀雄に対して、正太は自分の頭をポカポカ叩き、背を向けたり、見つめたり、くるくる回った。
「ないしょ、ないしょ・・」
会話に耳を澄ませていた夏実が、居間へ戻った。
「お兄ちゃん・・」
秀雄が夏実に強い口調で質問を浴びせた。
「ひろしって、誰だい?」
「えっ? 浩って?」
夏実の頬にまた火がついた。
「ひろしという男が、これらの絵を描くように言ったんだね?」
「な、何言うと、です?」
声が明らかに上ずっている。
秀雄は眉間に縦じわを寄せ、夏実を睨んだ。
「そいつは誰なんだい? 昔からの友だちだって、お兄さんは言ったけど」
「田口浩っていう、お兄ちゃんが中学生の時の友だちです。そん人が、お兄ちゃんの絵を見て、すごいって、褒めてるとです」
夏実の頬がさらに燃え上がる。
秀雄はまた腕組みをした。
「たぐちひろし? 聞いたことがあるような・・・・だけど、お兄さんは、どうして内緒って言うの?」
「それは、その、秀雄さんだって、こんな絵、発表したらだめだって言ったでしょう? これらの絵が、あまりに過激すぎるから・・」
たどたどしい言い訳をチャイムが遮り、玄関が開く音が聞こえた。
「こんにちは」
と浩の声が響いた。
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