12

 翌朝、高熱で蒼い顔の浩は、調理場で嘔吐してしまい、レストランのバイトをすぐに追い出された。

 雨に濡れながら、ふらふら新樹荘に帰り、汗まみれなのに、頭から布団をかぶって寝た。

 午後になっても、食事が喉を通りそうになかった。

 それでも、昼下がり、黒の上下の服に着替えると、五枚の絵を紙に包み、さらに雨対策にビニールで覆い、紐でくくり、抱きかかえて外へ出た。

 止まない雨が彼の心を洗っても洗っても、脳裏にこびりついた赤黒い血は失せなかった。

 野崎家の塀の後ろの小道から、裏庭を覗き込んだ。割れたはずの窓ガラスは元に戻っている。降り続く雨の中、血の跡は見て取れない。

「すると、あれは、幻だったのか? おれは、悪い夢を見てたのか?」

 表に回って、玄関のチャイムを押した。

 出迎えたのは夏実だ。今日は紺色のセーターと藍色のスカートを着ている。大きな目を丸くして、浩を見つめる。

「どうしたと? びしょ濡れだし・・吸血鬼に血を吸われたような顔、してるよ」

 浩が黙って突っ立っていると、夏実の目の色がやおら狂おしくなり、踏み出して手のひらを青年の額に当てた。

「ひどい熱じゃない。あんた、とにかく、濡れた服、着替えて。お兄ちゃんの服、用意するから・・ああ、その前に、シャワーを浴びなさいよ」

 夏実は浩の腕を引いて、浴室に導いた。

 浩はふらつきながらも、髪を洗い、全身を洗った。

 下着もズボンもセーターも正太の服を着て、浩が居間へ行くと、夏実が緑茶を出しながら言った。

「あのね、聞いてくれる? 昨晩ね、泥棒が入ったみたいなの」

「泥棒?」

 浩は生唾をお茶で呑み込み、湯呑を台の上に置いた。

「でも、おかしいとよ。玄関の鍵が開いてるし、あたしの部屋の窓ガラスが割れてたのに、何も取られてないとよ」

「何も? ほんとに何も?」

「何ね? あんた、何か知ってると?」

「懐中・・」

 と言いかけて、浩は口をつぐんだ。

「え? かいちゅう?」

「あ、かい、絵画は、盗まれんかったと?」

「そうなの。この前は、いくつも盗まれたのに。お父ちゃんが昨晩、警察を呼んだとやけど、結局、帰ってもらって、今朝、また来て調べてもらったけど、やっぱり何も取られていなかった」

「指紋とか、調べたと?」

「調べたよ。この前は犯人の指紋は出て来んかったけど、今回は、新しい指紋があちこち出て来た、って言ってた。あんた、どうしたと? やっぱり顔が真っ青よ」

 浩は笑顔を見せようとしたのか、頬が引き攣った。

「昨日、おれ、家じゅうの鍵を閉めて回ったから、おれの指紋かも」

「じゃあ、いつでもあんたを、警察に突き出せるってことね」

 意地悪な目で娘が笑う。

 浩はうつむき、崩れるように長椅子に座り込んだ。

 娘の目がいたずら色に変わり、甘い匂いをぶつけるように彼の隣に腰を下ろした。まぶしい膝を組んで、ウフフと笑うようなまなざしを青年に向けた。

 浩はうつむいたまま黙り込んでいたが、思い出したようにとび色の瞳を見つめ返した。

「あのさ」

「何?」

「北野秀雄って人、泥棒がまた入ったことについて、何て言ってると?」

 夏実の目の輝きがにわかに曇った。

「あの人には、まだ伝えてないけど・・あんた、また、あの人を疑ってるの?」

「北野さんは、正太の絵を心配して、ガードマンをつけてくれた人なんやろ? そのガードマンだけど・・」

「ああ、そうだ。昨晩のこと、気味悪いけん、また彼にガードマン、お願いしようかな」

「それはだめ」

「え? 何で?」

「やつらの一人は・・」

 と言いかけて、浩は怖い顔で口を閉ざした。

「何ね?」

 夏実の瞳が湖のように彼を呑み込もうとする。

「あ、いや、おれが、この家を、守るから。命がけで守るから・・」

 湖がふいに細くなり、身をよじって夏実が笑った。

「あはは、命がけだって・・その瘦せた体じゃ、命がけでしょうね。冬に泥棒に暴行を受けた時にも、死にかけたんでしょう?」

「泥棒をやっつけたこともある」

「あら・・いつ?」

「昨晩」

 青年の喉ぼとけが一瞬動いた。

「えっ? 昨晩?」

「昨晩、夢で、やっつけた」

「はあ? さっきまで蒼い顔してたのに、今は耳まで赤くして、何言うと?」

 夏実の言う通り、浩は顔から火を噴いていた。苦しそうに唇をゆがめ、血走った目で上目使いに夏実を見た。

「おれ、人を殺したかも・・夢だけど」

 夏実は金縛りにあったように、息もせず、じっと見つめ返していた。

 しばらくして、ぶるっと肩を震わせ、話を変えた。

「あのさ、ずっと気になってたけど・・あれ、何?」

 指さすのは、浩が持参した大きな包みだ。

「正太に描いて欲しくて、持って来た・・正太は、どこに?」

「散歩よ。お兄ちゃん、ぶらぶらするのが好きなの」

「ずっと雨だよ」

「お兄ちゃんにとっちゃ、雨も自然、というか、生活の一部なの」

「いつ帰って来る?」

「それが分からない人なのよ」

「じゃあ、この家に、おれたち、ずっと二人きり?」

「あっ」

 それを初めて知ったかのように目を見開き、夏実は近くの大きなクッションを胸に抱いた。

「あんた、変なことしたら、ただじゃおかんけんね」

「変なことって?」

「そ、それは・・あんたが今、考えていることよ」

 夏実の頬も熱くほてった。

「おれが考えてることって、何?」

「あ、あんたが、言いなさいよ」

 夏実の満月のように見開いた目に涙がにじんだ。

 その目に釘付けになりながら、浩は言う。

「おれは・・昔、ある少女の、胸を撃つほど美しい瞳に、夢中になったことを、思い出していた」

「え?」

「そして、その思いは、今も膨らんで、この胸を焦がしている」

 ピンクのふくよかな唇が震えて、幼い少女のような声がもれ出た。

「急に、変なこと、言わんでよ・・嫌らしいこと、しようとしたくせに」

「嫌らしいことなんて、しとらんやん」

「しようと、考えとったでしょう?」

「おれは・・本当に好きな、この世で一番の人にしか、そんなことせんけん」

「あれえ、あんたに、そういう人、いると?」

 浩は目の前の好奇に輝く瞳をまっすぐ見返した。

「いるよ」

 瞳が深く引き込んだ。

「へえー、どんな人ね?」

「年下のくせに、生意気な娘」

「生意気なのに? いつから、好きなの?」

「中学生の時から」

 熱く見つめ返していた夏実の目が泳ぎだし、浩が持って来た荷に向けられた。結ばれた紐をほどきだしたが、指が震えてうまくできない。

「あんた、今度は、どんな絵、持って来たの? お兄ちゃんに、どんな絵を、描かせたいの?」

「え? あ、うん・・」

 夏実はどうにか紐をほどき、ビニールから出し、絵を覆う紙も外した。

「あっ?」

 絵を見た夏実の眉間にしわが寄った。

「ひどかあ・・」

 その夏実の言葉は、昔、浩が正太の絵を見て、こぼれ出たのと同じだ。

「あんた、まさか、こんな絵を、お兄ちゃんに?」

「そのために、描いた」

「ひどかあ」

 と何度ももらしながら、夏実は絵を見ていった。

 黄色い兵士たちが、黄色い男女たちを撃ち殺している絵。

 今まさに銃弾が額にめり込む瞬間の絵。

 二人の兵隊が、互いの体を刺し合っている絵。

 爆弾で黄色い老若男女の肉片が飛び散っている絵。

 そしてもう一つ・・・・・・

「あんたが、こんな絵を、描いたの?」

 とび色の大きな瞳が、非難とも悲しみともとれるまなざしを浩にぶつけた。

 浩はたどたどしい口調で言う。

「中一の時、お父さんに見せられた絵、が忘れられなくて、描いたんだ。お父さんは、おじいちゃんの、戦争で人々を殺した贖罪の絵を、受け継いだと話してた」

「あんたの、お父さんも、今もこんな絵、描いてるの?」

「お父さんは、十年前、それらの絵を持って、上京したけど・・それきり帰って来んかった。捜索願も出したけど、この絵も、見つからんかったし、手がかりもまったくない」

「十年も? それで、この絵を世に出して、お父さんを、捜そうとしてるの?」

 浩は首を振った。

「そんなんじゃない」

「じゃあ・・こんな絵を描いて、何になると?」

 夏実のその言葉も、昔、正太の絵に対して浩がぶつけたのと同じだ。

「そんな絵は、何にもならん。何も生み出さん、ゴミだ」

 浩の目が悲しげにゆがんだ。

「なら、何でこれをお兄ちゃんに描かせようとするの?」

「夏実は正太のマネージャーなら、分かるやろ?」

「分らんよお」

「八年前、おれは、この汚い手で、正太の絵を焼こうとした。だけど、どうしてもできんかった。そしてその後、何年も考えたとよ・・どうしてできんかったのかを。そして、自分も正太の絵をまねて描いているうちに、分かった気になっていた。だけどね、昨日、正太の絵を見て、自分の間違いに気づいたんだ。ねえ、夏実も気づいているとやろ? 正太の絵の秘密を。正太の絵が、どうして本物かという理由を」

「何ね? どういうこと?」

 浩はふいに立ち上がって、夏実の腕を握った。

「きゃあ」

 悲鳴を発して、夏実は振りほどこうとする。

 浩は強引に腕を引いて居間を出た。

「きゃあああ」

 叫ぶ娘を奥の部屋へと引きずった。

「痴漢、変態、あんた、やっぱり、変なことするのね」

 正太の部屋に引き込むと、浩は四枚の絵を指さしながら言った。

「この絵を、見てみらんね」

「何ね? 手を離さんね。もう、あんたなんか好かん」

 ヒステリックに泣き叫び、夏実は男の手を振り払った。

「好かんでよかけん、この絵を見らんね」

「せからしかあ、サイテー男」

「例えば、この絵」

 一つを指す。

「好かん、好かん」

「おれは、この絵を初めて見た時、ひどいショックを受けたとよ。おれがひどい非難を浴びている、と感じた。だけどそれだけなら、この絵がどんなに優れた芸術作品であっても、おれは、この手でこれを焼くことができたと思う。だけどできんかった。その理由が、今なら分かると。ここに描かれてる、タバコを吸う少年は、おれなんだ。だけど、それだけじゃなかった。ここで正太を蹴っている信雄も、おれだったとと。この武志も、おれだった。そして、暴行を受けている正太さえも、おれだったとよ」

 浩の異常な目が、夏実の瞳に映し出された。

「あんた、何言うよっと? 頭おかしいと?」

「ごめん。分からないよね。うまく説明できんとよ。だけど、これだけは言える・・正太はね、自分の屈辱を晴らすためにこれを描いたんじゃなかったとよ。たぶん、これは、彼の天性のものなんだろうけど、正太はね、おれのためにこの絵を描いたとよ。いや、それだけじゃない・・自分をいじめる信雄や武志のためにも、この絵を描いたんだ。あの頃のおれには、とうてい思いもよらんことだったけど・・今なら、心の底から分かる。この絵が本物だという理由は、この絵に本当の愛が込められているってことなんだ。そうだろ? この絵には、そしてこの絵にも、この絵にも、絵の中の一人一人に、本当の愛が、本物の祈りが、深く込められているだろう?」

 夏実の目から怯えが失せていた。

「よう分からんけど、あんたには、それが分かると言うの?」

 浩は思わずか細い指を握ったが、夏実は逃げようとせず、見つめ返していた。

「うん。うん。だから、ここにある絵は、本物だし、観る人を感動させるとよ。そしてね・・だから、正太は、おれが今日持って来た絵を、完成させられる。ゴミだった絵が、世紀の名作に生まれ変わるとよ。おれはダメな絵描きだけど、それを信じて描き続けてきた。今も、世界のどこかで戦争が起こり、多くの罪なき人々が殺され、苦しんでいる。正太の絵が、この世の誰かに絶対必要だから、おれは誰に非難されようと、描き続けてきたとよ。そしてそれはきっと、戦争で殺人者となってしまったおれのおじいさんや、その罪を受け継いだお父さんの願いでもあるとよ」

 夏実は、男の焼き尽くすような目と、指を握って離さない手を交互に見ていた。心臓が苦しく高鳴って、体じゅうの力が抜けていたが、玄関から音が聞こえ、足音がバタバタ近づいて来るのにハッと気づくと、慌てて手を振りほどき、廊下へ出た。

「あ、お兄ちゃん、お帰り。あらあら、こんなに濡れて。早よ、シャワーを浴びてね」

 浩も部屋から出て、

「お帰り」

 と言った。

「あっ、ひろしくん。た、たたいま」

 顔ををくしゃくしゃにして笑う正太には、びしょ濡れも似合っていた。


 それから毎日、浩は正太の手助けをしに野崎家へ通った。

 夏実に会える一日一日、いや、一秒一秒が、浩には至上の幸せだった。

 

 そして花々匂い乱れる春が過ぎ、蛙狂い鳴く梅雨が過ぎ、まぶしすぎる陽光が胸焦がす夏も過ぎ・・・・・・・九月にその五枚の絵が完成したのだ。


 








 

 












 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る