11
夕暮れ時、浩は梅屋うどんへ行った。
ネギたっぷり入れたかけうどんは、相変わらず絶品だった。
「田口さん、ほんとに久しぶりですね。ずっと来んかったけん、さみしかったですよ」
と店員の娘が声をかけてきた。
「おれの名を覚えていてくれて、嬉しいよ」
浩の言葉に、娘は目を細めた。
「わたしの名前は? 覚えているわけないかあ」
浩は娘をチラと見て言う。
「かわいい優ちゃん」
優は浩の肩をポンと叩いて、
「わあ、わたしを口説いてもだめですよ。わたしには、好きな人がいるんですから。でも、どうしてもと言うのなら・・」
「おれにも、心に決めた人がいるけん」
「あら、残念、どんな人ですか?」
「秘密」
「えー、どんな人くらい教えてくれても・・」
「恋の別名、知ってる?」
「恋の別名? ラブラブ、とか、イチャイチャ、とか、チューチュー、とか・・」
「秘めごと、だよ。秘密をしゃべっちまったら、恋はしぼんでいくもんなんだ」
「本当? じゃあ、わたしも、胸の奥に秘めておかなくっちゃ」
胸に両手を当てる優に、厨房から店主の声がかかった。
「優ちゃんには、ムリムリ」
優はふくれっ面で、
「あら、真さんに言われちゃ、おしまいだわ」
浩にはその言葉の意味が分からなかった。
梅屋を出ると、浩の足は野崎家へと向いていた。もう辺りは夜のとばりが下りていた。
表へ回り、玄関の戸を開けようとした。鍵がかかっている。
うなずいて、帰路を歩いた。
「だけど、あの言葉は、何だったんだ? 何のためにあの娘と付き合っていると思う、だってえ? そう言ったのは、おそらく北野秀雄・・」」
つぶやきながら、振り返っていた。そしてもう一度野崎家へ戻り、闇に包まれた裏口を確かめた。やはり鍵で守られている。
「大丈夫だ。夏実とすべての鍵を閉めたはず。窓だって、開くはずない」
独り言をもらしながら歩き、窓も調べた。表側は開かない。
裏道側の庭の窓へ回った時、嫌な予感が頭の後ろに沸いた。
「去年の暮れにあの男たちが出て来たのは、確か、あの窓だ」
そうつぶやきながら、家の中央付近の窓へ急いだ。
窓枠に指をかけ、力を入れると、ザッ、ザッ、音を立てて開いた。
「どういうわけだ? この窓、確かに鍵をしたはずなのに・・」
中を覗き込むが、真っ暗だ。
何かが動く音が聞こえて、耳を澄ますが、自分の心臓の響きしか感じられない。だけど目を凝らしていると、床の近くに怪しい光を見出した。さらによく見ると、二つの眼のようだ。
「ミャア?」
と聞いた。
それは何も答えず、動きもしない。
「ちくしょう、早くこの鍵を閉めんと、やつらが来ちまう。どうすりゃいい? ああ、そうか・・答えは一つか」
窓から中に入る途中、猫が走り去る音を聞いた。部屋に降りて、手探りで鍵を閉めた。靴を脱いで、闇の中をふらふら玄関へとさまよった。
靴を玄関に置きながら、自問した。
「どうしたら、鍵を閉めたまま、この家を出れる?」
闇の廊下を行ったり来たりした。闇に少し目が慣れた頃、入って来た窓の方から、ガタガタという振動音が静寂を破った。
地蔵のように固まって、音に集中した。
「おかしいなあ、この窓のはずなのに」
と声が聞こえた。
「北野さんは、正太と夏実を迎えに行った時にこの窓の鍵を開けとくって、確かに言ってましたよ」
昼間レストランで聞いた大男たちの声のようだ。
「他も調べてみるぞ」
彼らは家じゅうの窓や戸口を嗅ぎ回った。。
玄関のチャイムも鳴らした。
やがてさっきの窓に戻ってくると、
「仕方ない」
と言って、何かで窓ガラスを叩いた。
浩は全身の毛を逆立てながら、闇に目を凝らした。
『何か武器になるものは、ないだろか?』
近くに何かが置かれていた。忍び歩いて、手に取った。太い円柱状の金属のようだ。取っ手のようなものもある。ガラスの割れる恐怖が響いた。
『入られたら、殺されるかもしれない‥』
と痛いほどの心臓の爆音の中、考えた。
『やつらは、プロだ。勝ち目なんかない。だとしたら、もう、一刻の猶予もないぞ』
割れたガラスの隙間から、鍵が外され、窓が開いていく。
浩はその窓の下へと忍び込んだ。そして大きく息を吸い込んだ。
窓から黒い影が入りかけた。
『今、やらなきゃ、殺される・・』
手にした凶器を、その頭へ、強く息を吐きながら、振り回して撃ちつけた。ガッ、という音と、何かが割れるような音が混じった。恐怖で体じゅうの力が抜けていて、手応えなど感じなかった。まるでウチワで叩いた感触で、これでは反撃されてしまうと心が叫んでいた。叫び声も呻き声もなく、黒い影は窓の向うへ弾けるように消え、地面に体を打ちつけられる音が聞こえた。
「何だあ?」
驚愕の声は、もう一人の男の声だろう。
浩は黙したまま、狂気渦巻く物陰に身を潜めた。もう持つ力もないのに、指が凶器から離れない腕がぶるぶる震えている。
「おい、勇、大丈夫か? 何があった? お、おい?」
動揺で声を震わせているのは、おそらく野田という四十歳代の男だ。勇と呼ばれた男の声は聞こえない。
「ちくしょうめ」
野田の呻き声と、何かを引きずる音、そして微かな足音が、震える闇の底へと沈んでいった。
浩が立ち上がって、手探りで電灯を点けたのは、それから三十分以上過ぎてからだ。
まず確かめたのは、凶器に使った金属だった。それは赤い消火器だった。銀のラベルに大きな黒文字で【あんしん】とある。
「よくこんなものを・・」
と、上ずった声でつぶやいていた。
壁に吊るされた懐中電灯を見つけ、手に取って、窓の外の狭い裏庭を照らした。
「あ?」
引きずった血の跡が塀の方に続いている。窓から身を乗り出し、すぐ下の地面に光を当てた。赤黒い血が匂うように浮かびあがた。
「あああ」
手から落ちた懐中電灯が、鮮血を撥ねた。
浩は窓際に崩れ落ち、手足を震わせてながら蒼ざめていた。
「おれ、人を・・・・・・殺したのか?」
数分後に立ち上がり、夢遊病者のように玄関へ歩いた。靴を履き、鍵を開け、外へ出た。
裏庭へ回り、闇に光る懐中電灯をつかんだ途端、
「ひゃっ」
ともらして、手を離していた。
指に着いた血が、妖怪のようにべとべと彼を舐めた。
それでももう一度血に汚れた電灯を手に取って、地面の血の跡を確認した。
予想を超えた血の量の現実に、へなへな腰を抜かしていた。貧血で立てそうになかったが、何かが頭を打ち始めた。もう一度照らすと、眼前の血に、ポツポツ、穴が弾けた。穴の数はしだいに増え、大きくなっていった。
「な、何だあ?」
ともらしていた。
「おれ、何で、変なものが見える?」
ザアーと音が膨れ上がり、血の池が悪夢のように沸騰した時、豪雨に見舞われたことに気づいた。ふわふわ立ち上がって、雨で血を洗いながら電灯を消し、ポケットに突っ込んだ。頭の中も熱い血がたぎり、皮膚にまとわりつく雨がにじみ出る汗とまみれた。
「このおれが・・・・・・人殺し?」
帰り道、亡霊のように裏道の暗がりを選んだ。
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