10

 桜の蕾が頬を染め、膨らみ始めたある日のことだ。

 レストランの調理見習いのパートを終えた浩は、店の裏口から出ようとして立ち止まった。駐車場の黒い車から出る三人の男たちに、見覚えがあったからだ。

 二人は野崎家の家のガードマンに立っていた角刈りの巨漢、そしてもう一人は、彫りの深い顔の美男だ。その三十歳代の美男にも見覚えがある。俳優のように印象に残る顔だ。

「本当に、またやるんですね?」

 と言う若い大男の問いに、美男が周りを見回すので、浩はとっさに物陰に身を隠した。

 ささやき声に耳を澄ませた。

「ああ、今夜、また二人を連れ出すから、親父が帰る九時までには、やってくれ」

「あの二人は、大丈夫なんですね?」

「心配いらない。何のためにあの娘と付き合ってると思う?」

 夕立のような笑い声が通り過ぎるのを待って、浩は外へ出た。

 桜並木の通りを百歩ほど歩き、路地裏へと小道へ折れた後、走って引き返した。

「何のためにあの娘と付き合ってると思う、って、どういう意味だよ?」

 そう自分に問いながら駆けた。

「またやるって、また、何をやるんだ?」

 レストランに入ると、ウエイトレスが 不思議な顔で迎えた。

「あら、どうして戻ってきたと?」

「ごめん、ちょっとだけ、お客になってもいいかな?」

「え? あ、そういうことなら・・いらっしゃいませえ」

「コーヒーを一杯ください。あ、やっぱり、ココアを」

 店内に例の男たちを見つけた浩は、身をかがめて歩いた。

 そして仕切りを挟んだ隣の席に座り、男たちの会話に集中した。

 ウエイトレスがココアを持って来た時、彼女が話しかける様子もないのに、浩は人差し指を口に立て『しい―』と示した。ついでに両手の人差し指で、バツ印まで作った。

 昼食中、男たちは肝心なことは話さなかった。分かったのは、彼らが呼び合う名前が「北野さん」と「野田さん」ということくらいだ。若い男の名は、会話中に出なかった。彼らが店を出てから、浩も席を立った。


 浩の足は吹きすさぶ春風に押されるように野崎家へ向いていた。

「ちくしょう、何のためにあの子と付き合っていると思う、って、あいつ、どういうつもりだ?」

 その言葉を繰り返すと、歩みが速くなり、しだいに駆け足になった。

 最後の角を曲がると、向うの角を曲がってきた娘と目が合った。

 春に似合う空色のワンピースの裾が、いたずらな風にめくれ、一瞬輝いた白い腿が浩の胸になだれ入った。栗色の巻き毛も白桃の頬に揺れた。

 桜色のふくよかな唇が開いて、

「ああー」

 という声が、一気に潰した果汁のように溢れ散った。

 とび色の目をむき出しにして駆け寄って来る。

 浩はとっさに逃げ出していた。

 夏実は手に持っていた買い物袋を玄関前に落としながら追いかける。

「ちょっとお、あんた、何で逃げるとよお。待てえ」

「えっ? えっ?」

「待てっち言いよろがあ」

 追いつかれ、腕を取られ、引き留められた。

「もう、何でえ? 何で逃げると?」

 睨むとび色の瞳が深い泉のように浩を引き込んだ。さらにハアハア息を切らしながら、食いつくように質問を連発する。

「だいたい、あんた、長いこと、何してたのよ? お兄ちゃんにあの絵を渡して、何でずっと来なかったのよ?」

「えっ? 夏実が、あっ、いや、夏実さんが、もう二度と来るなって、言ったから」

 浩も目を見開いて夏実を見返した。

「何、それ? あたしのせいにすると? あんた、そんないい加減な気持ちで、あの絵を渡したとね?」

「いい加減な気持ちで、家も、家族も、会社も、何もかも捨てて、ここに来るわけないよ。だけど、夏実に、あ、違った、夏実さんに、あんなに叩かれて・・」

「はあ?」

 夏実の手が震えだすのを見て、浩は反射的に手で頬を守っていた。

「だって、おれは夏実に、あ、ごめん、夏実さんに・・」

「ほんと、せからしかあ。もう、夏実、でよかよ」

「ほんとに? 怖かあ」

 夏実は今にも叩きそうにわなわな睨んでいる。

「世界で一番やさしいあたしに、怖か、なんて失礼でしょ。だいたい、あたしは、あんた以外、人を叩いたことなんてないのに」

「世界で一番やさしい人に、何度も叩かれたおれって、何なんだ?」

 ふいに踏み出した娘の手が浩の腕をつかんだ。輝く瞳がぐっと近づいて浩を呑み込んだ。若草のような懐かしい匂いも胸に飛び込んできた。夏実は、浩の腕を家の方へ引いた。

「そんなことより、あんた、お兄ちゃんの絵を見に来たんでしょう? あんたのおかげで、お兄ちゃんはさらに有名になれたとやけん、お礼をせんといかんね」

「えっ? いったい、何の話?」

「まさか、知らないわけないよね? テレビでも、ネットでも、新聞でも、お兄ちゃんの絵、今、話題になってるでしょ?」

「おれの部屋には、テレビもパソコンもないし、新聞も取ってないけん」

「スマホでも見れるでしょ?」

「おれは・・すべてを捨てて博多に来たとよ」

 娘の潤った瞳が浩を覗き込む。

「あんたって・・やっぱり変な人」

 家に入る前に、浩は言ってしまった。

「おれも、自分が変なやつだと思う」

「どうして?」

「夏実の匂いばかり、夢中で嗅いでる」


 家に上がった浩の左頬には、夏実の手形が熱く残っていた。

 廊下の奥の、左の部屋に通された。

 六畳の部屋の窓際で、正太が絵を描いていた。

 壁に並んだ絵を見て、浩の胸から狂喜が溢れ出た。

 それらの絵は、浩が渡したスケッチブックの絵を、正太が再現したものに違いなかった。正太が中学三年生の時に描いた水彩画に比べ、ここに叩きつけられた油絵の極彩色は数段迫力を増し、さらなる苦悩や劇痛、そして狂気を、浮き彫りにさせていた。そして、八年前は理解できなかった正太の絵の秘密を、浩は今、雷に撃たれたように感じ取ったのだ。それは、秘密というより、秘宝と呼ぶべきものだった。

「正太、何で? 何でこれを描いた?」

 と問いかける浩の目に涙が浮かんだ。

「ひ、ひろしくん」

 目に不安の色を浮かべて、正太は見返した。

 夏実が怪訝な声で言う。

「何でって、あんたがこれを描けって、頼んだんじゃない」

 浩はこぼれる涙を気にもとめず、正太の手をぎゅっと握った。

「おまえの心も、あの時の屈辱を、忘れとらんとやね?」

「く、くつ、しょく?」

 正太の目が大きく見開いた。

「おまえは、あの頃、ひどいいじめを受けていた。その時の心の傷が、ずっと胸の奥に押し込められていて、今、この絵となって、マグマのように噴き出したとよ。じゃなきゃ、こんなすごい絵、描けるもんか」

 正太の額に苦悩のしわが寄った。

「あ、あくま?」

「悪魔でも、マグマでも、どっちでもいいけど・・おれだって、転校したおまえのかわりにいじめられた時もあったけん、少しは分かるとよ」

「ひろしくん、も、いじめられた?」

「うん。でもね、信雄が、おれを助けるようになって、いじめは止んだとよ」

 夏実が驚きの声で口をはさんだ。

「信雄って、お兄ちゃんをいじめてた、あの嫌らしか男でしょう? あんた、あんなやつと仲が良かったと?」

 浩は夏実を見つめて首を振った。

「信雄も、おれと同じように、正太の絵に、魂まで打ちのめされたんだと思う。あれから、あいつ、人が変わったように勉強しだして、おれと同じ進学校に合格したんだ。その後、同じクラスになって、友達になった。信雄は、英語が得意で、カルフォルニアの大学に行って、今じゃ、あっちで美術関係の仕事についてるよ」

 夏実は、食べた柿が渋かったような顔をして、

「あの男の話は聞きたくないよ。あいつ、ほんとに嫌らしかったもん・・あ、嫌らしいのは、あんたもだけど」

「世界で一番清純なおれが、嫌らしいだなんて・・」

「はあ? まだ幼かったあたしの胸をつかんで、川に突き落とされたこと、覚えていないと?」

「あれは・・事故だったんだ。でも、おかげで、夏実の胸、そんなに大きくなったのかも、あっ」

 飛んできた右のビンタを、浩の左手がぎりぎり防御した。浩がほくそ笑んだ瞬間、夏実の左手が閃き、右ほおを劇打した。娘のふくらんだ頬がみるみる紅潮し、睨み上げる目もレーザーを放って浩を襲った。

 歯ぎしりするように言う。

「あんたのおかげでいじめの絵が有名にならんかったなら、あんたなんか、絶対家に上げんかったのに」

 浩の頬も赤くなり、夏実を見る目も熱かった。

「前に、言っただろう・・正太には、人間の真実が描けるって。これからも、正太は、もっともっと描ける。おれは、ずっと、正太が描くべき絵を描いて生きてきた。正太なら、その絵を完成させられる。おれの絵、全部あげるから、おれと組んでくれないか?」

「え? 何それ?」

 浩は夏実の前にどっと崩れ、ひざまずいてまっすぐ彼女の目を見つめた。

「おれを、仲間に、加えてほしい。正太は、ピカソやゴッホにも負けない、世界的な画家になれるから」

「マネージャーなら、あたし一人で十分だし、絵は、一人で描くものでしょ?」

「音楽の世界で、ジョンやポールらが組んで、世界中の人々を熱狂させたように、美術でも、おれたちが力を合わせれば、誰かを救う本物の絵を生み出すことができるよ」

「ジョンやポールって、誰よ? あんたが言ってるのは、夢物語でしょ?」

「おれは、その夢物語を信じて生きてるとよ。おれの部屋には、正太に描いてもらいたい絵が、たくさんある。今度それを持ってくるから、とりあえず見てくれないか?」

 夏実は腕組みをして、浩を見下ろした。

「あんたのおかげで、今回は大儲けしそうだから、見るだけ見てあげるよ」

「大儲け? おれは、金もうけのために絵を描いてるんじゃないよ」

 二人の声に怒りが混じった。

「あたしは、マネージャーなんだから、お金のことを考えるのは、当然でしょ? あんた、あたしたちがどんなに惨めに生きてきたか、知らんでしょう? あたしのお母さんは、治療をちゃんと受けれなくて、あたしを生んですぐに死んだ。お金がなくて、一日一食食べれればよかった。修学旅行だって行ったことないよ。あたしもお兄ちゃんも、中学の制服だって買えなかったけん、みんなにいじめられた。平気な顔してたけど、ちっとも平気じゃなかった。もっと勉強したかったけど、高校にも行けんかった。去年になって、あたしが身を売ってお金を稼ぐしかなくなった寸前、お兄ちゃんの絵が売れて、お金が入ってきたの。そのおかげで、お父ちゃんのお店が持てて、この家を借りれるようになって、やっとまともな生活ができるようになったとよ。あんたなんかに、あたしたちの、何が分かるというと? え? えっ? 何?

あんた、何で泣くと?」

 浩と同じように夏実も畳に膝をついて、大きく見開いた目で浩の目を覗き込んだ。

 浩は涙も拭かず、

「泣いとらんよ。泣くわけないやろ」

「なして泣くと?」

「泣いてない。だけど、夏実も、同じやったとやね?」

「同じって? え? あたしをあんたと同じにせんとってよ」

「だけど、おれが、おまえらを、大金持ちにしちゃるけん」

「はあ? あんた、やっぱり、頭おかしいのね」

「ああ、そうだよ。おかしいんだ。中一の時、お父さんに、おじいちゃんが描いた戦争の絵を見せられた時から、おかしいんだ。そして、中三の時、この、正太のいじめの絵を見た時から、もっとおかしくなったと」

 壁に立てかけてある絵を指す浩に、夏実が笑みをこぼした。

「あはっ、この人、とうとう自分をおかしいって言いだしちゃった」

 その笑みこそ、浩を幸せにする笑顔と笑声に違いなかった。

「そして、あの八年前の夏、ある女の子とぶつかってから、もうどうしょうもなくおかしくなったと」

 夏実の目が、涙で揺れる瞳に見入った。

「あんた、頭でも、打った? ああ、そうか、あたしが力いっぱい叩いちゃったから・・何? そんな目で見られちゃ、変な気持ちになりそう」

 その時、居間の方から電話の受信音が聞こえた。

 夏実はぶるっと震えるように立って、部屋を出た。

 浩も立ち上がり、正太の描いた絵を、一つ一つ手に取った。

「ひろしくん、か、かいて、いうから、かいた」

 と正太は言う。

「ありがとう、正太。おまえは、やっぱり、天才だよ」

 無邪気な笑い声がもれた。顔をくしゃくしゃにして笑う正太は、八年前と同じだ。

「ひろしくん、かいて、いうから、かいた」

 と弾むように繰り返す。

「ありがとう。また、持って来るけん、描いてくれ」

「ひろしくん、かいて、いうから、また、かく」

 浩が正太の絵に没頭している時、夏実が戻って来た。

「お兄ちゃん、夕方に、秀雄さんが迎えにいらっしゃるってよ。お兄ちゃんの新しい絵が有名になったけん、今夜、お祝いの会を開いてくださるって。よかったね、おいしいもの、いっぱい食べれるよ」

 と部屋じゅうにバラが咲きそうな笑みで報告する。

「ひ、ひておさん、なっちゃん、すき」

 と正太も笑顔満開で言う。

「あ、それだめ」

 と浩はもらしていた。

「えっ? 何?」

 夏実の目が笑みの輝きを残したまま浩を見つめる。

 正太がさらに言う。

「ひ、ひておさん、なっちゃんに、ふ、ふろほーす、するって」

「だから、だめだって」

 と浩は、夏実を見つめ返して、はっきり言った。

「だめって、何がよ?」

 揺らぐ炎のような目で黙り込む浩に、夏実はいらだった声で、もう一度問う。

「ねえ、何がだめなの?」

 浩はさらに十秒ほど口を閉ざしていたが、

「一つだけ、聞いていい?」

「何?」

「冬に、高値のついた正太の絵が、いくつも盗まれたんだよね。その夜、どうして夏実も正太も、この家にいなかったと?」

 とび色の瞳が、斜め上に移ろいだ。

「ああ、あの夜なら、よく覚えてるよ。秀雄さんが、お兄ちゃんの絵画展成功の祝賀会を開いてくれたの」

「ひておさん、ふろほーす、するって」

 と正太がまた笑顔でこぼす。

「だから、だめだって」

 と浩は叫ぶように言う。

「えっ?」

 夏実の瞳が斜め下から光った。

「あんた、まさか、やきもち?」

「な、何言うと?」

「顔、赤いやん」

「夏実が、変なこと言うからやろ。おれが言いたいのは、今夜も同じってことだよ。また、大事な絵を、盗まれるとよ」

「はあ? それ、どういう意味? もしかして、秀雄さんが、この前の盗みに、関係したって言いたいと?」

「え? あ、ああ、そうだよ」

 夏実の頬が浩以上に紅く燃えた。

「あんたあ、言っていいことと悪いことがあるとやけんね。秀雄さんがどんなにいい人か、知らんくせに・・今度彼の悪口を言ったら、あたしが許さんからね」

 夏実の怒りに、浩は両手で頬を守っていた。

「ごめんなさい。分かったから、今夜、最悪のことが起きないように、しっかり戸締りしよう」

 それから浩と夏実の二人で、家じゅうの窓や裏口の鍵をしっかり閉じて回った。























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