8

 数日後、浩が大きな袋を持って再び野崎家を訪れると、家の前に黒い背広の大きな男が立っていた。歳は二十代半ば、四角い顔で髪は角刈りだ。

『ここは通さぬ』

 と言わんばかりに、近づく浩を細い目で威圧的に睨んだ。

 黒の皮手袋が、傍らを通る浩の腕をつかみそうだ。その男は金剛力士像のごとく黙して動かぬが、浩の胸内は毒虫が飛び回るようにザワザワ高鳴った。

 チャイムを押して玄関から入ると、夏実に続いて正太も出迎えた。

 夏実はライトブルーのワンピースを着ていて、浩の目が引き込まれた。

「わあ、夏実・・今日は、八年前と同じ、空色のワンピースだ」

 と思わず浩は口に出した。

 夏実の目に角が立った。

「あたしを呼び捨てにせんでよ。それに、何であたしの子供時代の服を覚えてるのよ? そりゃあ、ひどい貧乏だったから、汚れても、そればっかり着ていたけど」

 浩は夏実の警戒に満ちた目を覗き込んだ。

「覚えてるよ。その服、とても似合っていた。火事の時、その服を脱いで、おれと正太にまとわりつく炎をはらってくれたよね。だから、その空色のワンピース、ずっとずっと、忘れない。そして、その時の、夏実の白い下着姿も・・」

 反射的に夏実の右手が閃いていた。

 バチッ、

 という音の後に、歯ぐきまで痺れる左頬の痛みを覚えていて、その一瞬後に浩の手が遅すぎる防御に動いていた。

 浩は涙目で何かを訴えるだけで、声が出せない。

 夏実の怒れる目にも涙が滲んでいた。

「変態男」

 のひと言だけで、浩を一刀両断。

 緑のセーターの正太が、後ろから割って入った。

「ひ、ひろしくんを、た、たたいちゃ、ため」

 正太は、夏実から浩を守りながら、居間へ引き入れた。

 浩は思い出したように言った。

「あ、そうだ、玄関前に、怪しい男が、立ってる」

 夏実が説明した。

「あのばかでかい人は、北野さんの部下の、伊藤さんです」

「北野さんって?」

「美術商の北野秀雄さん。貧乏のどん底から、あたしらを救ってくれた人。お兄ちゃんの展示会を開いてくれて、ずっとお世話になってるの。東京では有名な人らしいですよ。お兄ちゃんの絵が盗まれたことを報告したら、心配して、ガードマンを交替でつけてくれたとです」

「ガードマン? どうしてその人は、そんなことまでしてくれると?」

 夏実が黙り込むと、正太が口を出した。

「ひ、ひてお、さん、なっちゃん、に、ふろほーす、してるって」」

「ふろほーす? え? 風呂ホース?」

 浩が視線を移すと、夏実は慌てて胸の前で手を振った。

「違うよお。ただ、お付き合いを申し込まれてるだけよお。お兄ちゃん、変なこと、言わんでよ」

「ふろほーす、ふろほーす、ひ、ひてを、さん、なっちゃんに、ふろほーす、してる、あ、あいたた、あいたた・・」

 兄の耳を夏実の指がつかんで引っ張っていた。

「知らん、知らん、せからしかあ」

 浩は目を丸くした。

「え? もしかして、プロポーズ?」

 正太が浩をじいっと見た。

「ひろしくん、とした? かお、あ、あおい」

「知らん、知らん、せからしかあ」

 と夏実と同じ言葉を浩も言う。

 夏実は頬を赤くして浩を睨んだ。

「あんた・・もうよか。知らん」

 夏実はぷいと背を向け、居間を出て行った。

 残された浩は、正太と長椅子に座った。

「今日は、正太に見てもらいたい絵があって、持ってきたよ」

  浩は、持参した大きな袋から、スケッチブックを取り出し、開いて見せた。

「んぎゃ」

 と正太が尻尾を踏まれた猫のような声を発した。

 それは・・・濃い紫の教室で、黄色い服の少年が、中学の制服を着た生徒たちに囲まれ、パンツを剥ぎ取られている瞬間の絵だった。

 兄の声に驚いたのか、夏実が居間に戻って来た。

 浩はさらに、一枚、一枚、スケッチブックをめくって見せた。

 ・・・少年が皆の前で髪を切られている絵。

 ・・・タバコを吸う痩せた少年の後ろで、黄色い服の少年が、二人のいじめっ子に暴行を受けている絵。

 ・・・蹴られながらもスケッチブックを胸に抱いてうずくまる少年を、夕陽が赤褐色の暗い血で染めている絵。

「あ、あ、あ・・」

 スケッチブックを持つ正太の指が震えた。目の色がガラリと変わり、狂気じみていく。

 彼の肩に触れた浩の指も震えた。浩の目も、声も、何かに憑かれたようだ。

「覚えてるやろ? 八年前、中三の夏、おまえが夏休み絵画コンクールに出そうとした絵だ。その、おまえの髪を嬉しそうにバッサリ切ってるのは、おれだよ。タバコを吸いながら、いじめられるお前に背を向けてるのも、おれ。おれは、いじめの主導者の信雄に脅されて、そして自分のちっぽけな自尊心のためにも、おまえの絵を焼こうとした。だけど、どうしてもできず、おまえに焼かせたとよ。そしてお前の家は火事になって、おまえも、夏実も、久留米を去って行った。それからずっと、ずっとおれは、おまえと夏実を、求め続けていたとよ」

 正太は涙目で浩を見た。

「おいは、おいは、このえ、や、やいた、やいた」

「そう、おまえは、この大切な絵を、焼いてしまった。だから、また、描かなくちゃ。その絵は、おれが描いたニセモノだよ。そんな絵じゃ、誰の心も揺さぶらんし、誰も救うことなんてできん。だけど、おまえだけは、本物を描ける。おまえの絵がどんなに凄いか、おれは知ってるとよ。その絵をあげるけん、もう一度描いてくれんね」

「おいか、もういちと、このえ、かく?」

「そうだよ、おまえにしか、描けないんだ」

「おいにしか、かけない?」

 見つめ合う二人に、夏実が注意した。

「だめだよ。お兄ちゃんは、ミャアの絵を描くんだから」

「ミャア?」

 浩は夏実を振り返った。

「この猫の名前」

 と言って、本棚の上で眠るキジトラ猫を指した。

「ああ、そうだ、思い出した・・この猫の絵、デパートの展覧会で見たんだ」

「ミャアの絵が人気なの。世界的な賞を受けて、高額になっても、一番よく売れてるし、この前、盗まれたのも、ミャアの絵ばかりなの」

 浩は立ちあがって、猫の方へゆっくり歩いた。

 足音を忍ばせ、息も潜めているのに、猫の目がバチッと稲光のように見開いた。尻尾をぼわっとふくらませ、上体を起こし、逃げる体勢を取った。グリーンゴールドの目に両目ウインクで近づき、そおっと手を差し出した。ミャアはぬいぐるみのように動かない。浩はおそるおそる足を進めた。猫の喉が鳴り始め、浩の頬が緩んだ。

「ミャア」

 と呼びかけると、伸ばした指の先に鼻を近づけ、クンクン嗅ぐ。

 だけど喉を撫ぜようと指を動かした瞬間、キジトラ猫は飛び上がって避け、棚を降りて竜巻のように駆け回り、長椅子の正太の膝へ着陸して止まった。尻尾はバチバチ電気を散らせたままだ。

「ミャアは、ノラネコだったから、知らない人にはひどく臆病なの」

 と夏実が言う。

 浩は猫に呼びかけた。

「そうか、ミャア、おまえが、今、正太の一番の友だちなんだな」

「みゃあ、ともたち、ひろしくん、ともたち」

 正太の頬に笑みが咲いた。

 夏実が浩を睨んで言う。

「だから、もう、こんなひどい絵を描け、なんて、お兄ちゃんに言わんでよね。あんたの悪事、あたし、死んでも忘れんとやけんね」

 浩は夏実に食らいついた。

「おれのことは、どんなに悪く思ってもいい。だけど、正太は、人間の真実を描ける天才なんだよ。夏実は、正太のマネージャーなんだよね? だったら、正太の本物の絵を復活させる、手助けをしてくれないか?」

「夏実って、気安く呼び捨てにすんなって言ってるでしょ? あんたの言うことなんて、信じられると思うと?」

 浩は夏実から視線を離し、正太へ近づいた。猫が飛び立ち、一秒後には居間から消えた。

「ねえ、正太、おまえは、人間の本当を描けるとよ。おれと、もう一度、友だちになってくれんね? そして、一緒に、本物の人間の絵を描いてくれんね?」

「お、おいと、ひ、ひろしくん、と、ともたち、ともたち、すうっと、あいたっ」

 無邪気に笑う正太の頭を、夏実が小突いていた。

「お兄ちゃん、何言うよっと? だまされちゃいかんよ。昔、こいつのせいで、お兄ちゃん、焼け死ぬところだったとよ。ほんと、ばかなんだから」

 浩は振り向いて、夏実の肩に手を置き、必死で訴えた。

「おれ、二人に会う日を、ずっと、夢見てたとよ。嘘じゃない。正太にも、夏実にも、どんなに会いたかったことか、アイタッ」

 肩に触れた手を振り払いながら、今日二発目のビンタが浩の左頬を襲った。

「気安く呼ぶなって、何度言ったら分かると? 夏実、夏実って・・あたしはあんたの何ね? ほんと、好かん人。今すぐ帰れ。さあ、早よ帰れ。今度お兄ちゃんを惑わしたら、あたしがあんたを、ギャフッて言わしちゃるけんね」

 夏実は鬼のように顔を真っ赤にして、近くの箒を手に取っていた。

 そしてそれを振り回し、浩の頭をボカリ、背中をボカリ、何回も叩いたのだ・・大きなゴミを家から箒で掃き出すように。

 





















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