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正月明け、梅屋うどんが店休日の水曜の昼下がり、浩は黒いスカーフを首に巻き、黒のコートで身を包み、二人組の窃盗犯に暴行を受けた事件現場へ歩いた。
狭い路地裏、角を曲がると、高さ一メートルほどのレンガ塀の横で、二人の制服警官と一緒に、紺のコートを着た短い髪の男も彼を待っていた。
その男は梅屋うどんの店主で、いきなり浩の前にひざまずいて、頭を下げた。
「田口さん、大晦日の日は、すまん事をした。あの後、娘から本当のことを聞いたとよ・・田口さんを押し倒して、抱きついていたのは、娘の方だったって。それなのに田口さんの顔を、引っ叩いてしまったそうですね。このとおりだ・・」
さらに深く頭を下げ、
「大切なお客さんに、許されんことをした。これから、うどんで、たくさんサービスをしますから、どうか許してください」
それを聞いた浩も、同じようにひざまずいていた。
「そんなに頭を下げないでください。あやまらなくちゃいけないのは、おれのほうかもしれないのに」
「え?」
店主の大きな目が浩の目の狂気じみた光を見つめた。
「もしかして・・」
と深刻な声色で言いかけた浩に、警官の一人が話しかけてきた。
「田口浩さんですね?」
浩がうなずくと、
「今日は来ていただいて、ありがとうございます。さっそくですが、事件の夜のことを、詳しくうかがってもいいですか?」
うどん店主と一緒に、浩は立ちあがった。
そしてレンガ塀の向うの平屋の窓を指さした。
「そうだ、あの窓です。暗くてよく見えんかったけど、物音がしたので、目を凝らしていると、あの窓から人が出て来たんです。おれ、びっくりして、この木陰に隠れて見ていました。すると、別の誰かが、家の中から、布に包まれた四角い板のようなものを、外に出た男にいくつも手渡したんです。やがて、その誰かも、窓から飛び出して、こっちへ走って来て、あっという間にこの塀を乗り越えて・・それでおれの目の前に降りたんです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
事情聴取が済むと、うどん店主は、その平家に、浩を誘った。
表に回ると、玄関の表札に【野崎真一】とあった。
うどん職人の真一は、物静かな五十過ぎの男だ。その大きな目は、浩の知っている兄妹に似て、真っ直ぐな思いのような光を隠していた。
玄関を開けて入る真一に、浩も続いた。
玄関から上がってすぐ右の部屋から、娘が顔を出した。とび色の瞳に栗色の短めのくせ毛。丸く白い頬に笑くぼが光った。茶系のズボンの上のオレンジ色のセーターが、鮮やかに弾んでいる。
「お父さん、お帰り・・あっ」
笑くぼが消え、大きな目がさらに膨らんで浩を呑み込んだ。
「こんにちは」
と浩は軽く会釈した。
「ど、どうして?」
「おじゃまします」
真一に続いて、浩は左の居間に入った。
板張りの床の奥に長椅子があって、そこに座るよう勧められた。テレビ台の上にキジトラ猫が一匹、「コワイコワイ」と大きな目から発しながら浩を見ていた。緑の混じった金の虹彩の中の黒い瞳が、コートを脱いで腰を下ろす浩の動きを見逃すまいと注視している。
真一が居間から出て、別の部屋で娘と話す声が聞こえた。
やがて父と娘がお茶と和菓子を持って入って来た。
長椅子の横の台にそれを置き、娘が緑茶を湯呑に注いだ。
茶を差し出しながら、娘は熱い目を浩にぶつけた。
「警察の事情聴取にいらしたんですってね? 泥棒を止めようとして、ひどい目に合ったとですか?」
「ええ、うどん屋の優さんがおれを見つけて救急車を呼んでくれんかったら、おれ、たぶん、凍え死んでました。優さんは、あなたの友だちですか?」
浩の問いに、娘の目が三日月のように細くなった。
「ええ、ええ、友だちです。どうして分かったんです?」
「あなたのこと、親しげに、なっちゃん、と呼んでいたから。もしかして、あなたの名前は、野崎夏実じゃないですか?」
八年前の火事の時のように、浩は燃える目で娘を見つめた。
「え?」
娘の頬もじりじり燃えだした。
「そして・・もしかして、盗まれたのは、あなたのお兄さん・・野崎正太の絵じゃ?」
「あっ」
二人、目を見開いて、仇のように睨み合った。やがて、娘の手が恐る恐る伸び、浩の首の黒のスカーフに指をかけた。浩は見返したまま、ぶるっと震えて長椅子から立ちあがった。
「何ね? 夏実、二人は知り合いだったと?」
と言う父の言葉に、夏実は電気ショックを受けたように指を放した。
何も答えない娘に、真一は釘を刺した。
「それより夏実、まだ、この前のこと、田口さんに謝っとらんやろが。夏実もきちんと謝りなさい」
夏実は頭を下げるどころか、わなわな震えだし、浩を焼き尽くすように睨んだままだ。
家の奥から足音が響いた。やがてそれがバタバタ近づき、緑のセーターを着たボサボサ髪の男が居間に入って来た。
色白の丸顔で、丸い目はどこにも焦点が合っていないよう。だが、浩と目が合うと、その目にみるみる力と光がみなぎり、何かが溢れ出た。
「あっ、あっ」
と彼はもらしていた。
浩はとっさに後ろの窓を振り向いて、袖で涙を拭いた。
「ひ、ひ、ひろしくん・・」
言葉が頭の後ろで飛び跳ねた。
「ちぇっ、八年も会っていないとに、何で分かると?」
もう一度涙をぬぐって、浩は振り向いた。
「ひ、ひろしくん・・」
「何だ、正太、そのしゃべり方、ちっとも変っとらんねえ」
「ひろしくん、ひろしくん・・」
「ちくしょう、ずっと、ずっと、捜しとったとやぞ」
二人の壊れた声に眉をひそめ、夏実が浩に問う。
「何でね?」
「え?」
「何で、お兄ちゃんを捜していたの?」
熱い目が浩を突き刺している。
「それは・・また、正太と、二人の星を見つけたくて・・昼の星、を見つけたくて」
「はあ? 何言いだすの?」
と夏実は言うが、正太はさらに意味不明を口にする。
「き、き、きえろー、きえろー」
浩が深い悲しみを湛えた目で正太を見た。
「そうだよ。その、きえろーを、おれはずっと、ずっと、探し求めているとよ」
正太の目も同じ色に沈んでいった。
「たけと、きえろー、とこにも、なかった。し、しいっと、みた、みた、けと、すっと、すっと、しいっと、みたけと、ちっとも、なかった」
見返す浩の目が病的に震えた。
「ごめん、八年前の、あの時は、おれ、それを不真面目に言ったとよ。適当に言ってしまったと。だけど、今は、本気で言うよ。昼の星は、目には見えんでも、きっとある。必ずあるとよ。おれたちなら、きっとそれを見つけられるとよ」
夏実が狂人を見る目で二人を見つめていた。
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