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大晦日の夜、【梅屋うどん】は満席で、店主の野崎真一と店員の真鍋優と一緒に、真一の娘も手伝っていた。
ソバを運んでいた優が、テーブルを拭いていた娘に声をかけた。
「なっちゃん、あの人・・」
優の視線が指す方へ、娘が大きなとび色の瞳を向けると、一人の男が戸を開いて店を出ようとしている。
「えっ?」
「お金、払ってないよ」
おどおど振り向いた男と目が合うと、男はビクッと肩を震わせ、駆け出した。
「あっ?」
一瞬固まった後、娘は追いかけた。
そして戸口を飛び出た瞬間、叫び声が激突した。
入ろうとしていた別の客にぶつかったのだ。勢いで押し倒し、二人もつれるように倒れていた。娘の目の前に黒いコートがあり、視線を上げると、あおむけの青年の見開いた瞳が娘を襲った。彼の瞳も娘と似たとび色だ。
娘は息をすることも忘れ、丸い大きな瞳で見返していた。男の手が彼女の頭に伸びてきて、「キャッ」という短い悲鳴がふくよかな唇からもれた。男は彼女の頭の後ろの何かを手に取った。それは黒い帽子のようだ。
深い夢の底で時が止まったように娘が固まっていると、
「ずっと、こうしていても、おれはいいけど・・」
と青年はやさしい声で言った。
「えっ?」
男の上に倒れたまま抱きついている自分に娘は気づき、
「キャアア」
かん高い叫びで男の頬を引っ叩きながら立ち上がっていた。
「な、何で、叩く?」
男も立ち上がり、手にした帽子をかぶって包帯を隠した。
「ああ、ごめんなさい。あたし、ああ、追いかけなくちゃ」
娘は暗い夜道へ駆けだして消えた。
その叩かれた男は、退院した浩だ。
浩が店に入ると、いつもの若い店員、優が声をかけてきた。
「あら、お客さん、いつもありがとうございます。こないだ、夜道で倒れてたでしょ? 大丈夫でしたか?」
浩は空いた席に着きながら、
「え? 何で知ってると?」
「だって、お客さんは、真さんの家の裏で倒れてたんですよ」
店員は中年のうどん職人を指した。
「え、そうなの?」
「わたし、真さんの娘と友だちだから、よく家に行くんです。それで、わたしが倒れてるお客さんを見つけて、救急車を呼んだんですよ。わたし、お客さんの命の恩人やけん、この店の常連になってくださいね」
彼女が笑うと、八重歯が目立った。
「それは・・ありがとう」
彼女はさらに浩に近づいた。
「お客さん、名前は何というとです? わたしは、真鍋優。優って呼んでよかですよ」
「ああ・・おれの名前は、田口、です」
「あの夜は、大変だったとですよ。真さんの家に泥棒が入って、大切なものが盗まれたんです。田口さん、どうしてあの夜、あそこに倒れていたんです?」
「裏道を歩いてたら、怪しい男が窓から出るのを、目撃したとよ。二人組で、どちらも大男だった。すぐ前の塀を乗り越えて来たやつらに殴られ、その一人の手に必死で咬みついたら、めちゃくちゃ蹴られたとよ」
そう説明した後、浩はうどんを注文しようとしたが、優が年越ソバをたくさん準備してるからと勧めるので、かけソバにした。
年越のサービスで、きんぴらごぼうが付いてきた。ネギと七味をたっぷりかけて浩が食べ始めた時、戸口前でぶつかった娘が戻って来た。
「見失っちゃった」
と悲しげに言いながら入って来る。
浩を見つけると、うつむいて、そろりそろり、近づいた。
「あのう・・」
上目づかいの目が潤んでいる。
浩はそのとび色の瞳に引き込まれるように見返した。
「あのう・・」
と小さな声で繰り返す。
「うん」
浩の声もうわずった。
「さっきは、すみませんでした・・ぶつかっちゃって」
「え、そっち?」
娘の頬がみるみる赤く燃え、か細い声が震える唇からしぼり出る。
「ああ、ごめんなさい・・叩くつもりは・・」
上目づかいのまま、視線がもつれてほどけない。
家族客のレジを済ませた優が割り込んできた。
「何ね? なっちゃん、田口さんを、叩いたの?」
「えー、そんなあ、世界で一番やさしいあたしが、人のほっぺたを叩くわけないでしょ」
「何ね? なっちゃん、この人のほっぺたをビンタしたってこと?」
浩の呆れた目に絡まれて、娘は耳まで紅に火照った。
「あっ、そんな、まさか・・いえ、そのまさかで・・叩いちゃった」
「えー、田口さん、なっちゃんに、何したと?」
優が睨むので、浩は娘に言った。
「おれが、叩かれるような、何したか、優さんに教えてやって」
娘はうつむいたまま浩を見つめてしどろもどろ言う。
「この人、あたしに、だ、抱きついて・・」
そのリアルな言い方に、優の顔にも一瞬で火が付いた。いきなり浩の頭をポカポカ殴りだした。
「てめえ、わたしの親友に何してくれたのよ」
聞き耳を立てていた店主が飛び出して来た。
店主は優を止めるどころか、いきなり浩の胸ぐらをつかみ上げ、猛烈な台風のような勢いで店から引きずり出した。
「おれの娘に痴漢しやがって。二度と来るなあ」
と叫びながら、硬い歩道へ放りだした。
「な、何でえ?」
倒れたまま、浩は店の戸口を振り返った。
肩を怒らせて店へ戻る店主の背の向こうに、娘の訴えるような目を見た。その目からこぼれる涙が、店の明かりに光った。
小雪の舞いだした暗がりを歩きながら、浩は叩かれた左頬に手を当てた。
「いや、待てよ・・このビンタには、覚えがあるぞ・・」
と彼は口走っていた。
「ああ、そうだ、あの時、デパートの絵画展でも・・そして・・」
彼の瞳は粉雪の遥か彼方に注がれた。
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