6

 大晦日の夜、【梅屋うどん】は満席で、店主の野崎真一と店員の真鍋優と一緒に、真一の娘も手伝っていた。

 ソバを運んでいた優が、テーブルを拭いていた娘に声をかけた。

「なっちゃん、あの人・・」

 優の視線が指す方へ、娘が大きなとび色の瞳を向けると、一人の男が戸を開いて店を出ようとしている。

「えっ?」

「お金、払ってないよ」

 おどおど振り向いた男と目が合うと、男はビクッと肩を震わせ、駆け出した。

「あっ?」

 一瞬固まった後、娘は追いかけた。

 そして戸口を飛び出た瞬間、叫び声が激突した。

 入ろうとしていた別の客にぶつかったのだ。勢いで押し倒し、二人もつれるように倒れていた。娘の目の前に黒いコートがあり、視線を上げると、あおむけの青年の見開いた瞳が娘を襲った。彼の瞳も娘と似たとび色だ。

 娘は息をすることも忘れ、丸い大きな瞳で見返していた。男の手が彼女の頭に伸びてきて、「キャッ」という短い悲鳴がふくよかな唇からもれた。男は彼女の頭の後ろの何かを手に取った。それは黒い帽子のようだ。

 深い夢の底で時が止まったように娘が固まっていると、

「ずっと、こうしていても、おれはいいけど・・」

 と青年はやさしい声で言った。

「えっ?」

 男の上に倒れたまま抱きついている自分に娘は気づき、

「キャアア」

 かん高い叫びで男の頬を引っ叩きながら立ち上がっていた。

「な、何で、叩く?」

 男も立ち上がり、手にした帽子をかぶって包帯を隠した。

「ああ、ごめんなさい。あたし、ああ、追いかけなくちゃ」

 娘は暗い夜道へ駆けだして消えた。

 その叩かれた男は、退院した浩だ。

 浩が店に入ると、いつもの若い店員、優が声をかけてきた。

「あら、お客さん、いつもありがとうございます。こないだ、夜道で倒れてたでしょ? 大丈夫でしたか?」

 浩は空いた席に着きながら、

「え? 何で知ってると?」

「だって、お客さんは、真さんの家の裏で倒れてたんですよ」

 店員は中年のうどん職人を指した。

「え、そうなの?」

「わたし、真さんの娘と友だちだから、よく家に行くんです。それで、わたしが倒れてるお客さんを見つけて、救急車を呼んだんですよ。わたし、お客さんの命の恩人やけん、この店の常連になってくださいね」

 彼女が笑うと、八重歯が目立った。

「それは・・ありがとう」

 彼女はさらに浩に近づいた。

「お客さん、名前は何というとです? わたしは、真鍋優。優って呼んでよかですよ」

「ああ・・おれの名前は、田口、です」

「あの夜は、大変だったとですよ。真さんの家に泥棒が入って、大切なものが盗まれたんです。田口さん、どうしてあの夜、あそこに倒れていたんです?」

「裏道を歩いてたら、怪しい男が窓から出るのを、目撃したとよ。二人組で、どちらも大男だった。すぐ前の塀を乗り越えて来たやつらに殴られ、その一人の手に必死で咬みついたら、めちゃくちゃ蹴られたとよ」

 そう説明した後、浩はうどんを注文しようとしたが、優が年越ソバをたくさん準備してるからと勧めるので、かけソバにした。

 年越のサービスで、きんぴらごぼうが付いてきた。ネギと七味をたっぷりかけて浩が食べ始めた時、戸口前でぶつかった娘が戻って来た。

「見失っちゃった」

 と悲しげに言いながら入って来る。

 浩を見つけると、うつむいて、そろりそろり、近づいた。

「あのう・・」

 上目づかいの目が潤んでいる。

 浩はそのとび色の瞳に引き込まれるように見返した。

「あのう・・」

 と小さな声で繰り返す。

「うん」

 浩の声もうわずった。

「さっきは、すみませんでした・・ぶつかっちゃって」

「え、そっち?」

 娘の頬がみるみる赤く燃え、か細い声が震える唇からしぼり出る。

「ああ、ごめんなさい・・叩くつもりは・・」

 上目づかいのまま、視線がもつれてほどけない。

 家族客のレジを済ませた優が割り込んできた。

「何ね? なっちゃん、田口さんを、叩いたの?」

「えー、そんなあ、世界で一番やさしいあたしが、人のほっぺたを叩くわけないでしょ」

「何ね? なっちゃん、この人のほっぺたをビンタしたってこと?」 

 浩の呆れた目に絡まれて、娘は耳まで紅に火照った。

「あっ、そんな、まさか・・いえ、そのまさかで・・叩いちゃった」

「えー、田口さん、なっちゃんに、何したと?」

 優が睨むので、浩は娘に言った。

「おれが、叩かれるような、何したか、優さんに教えてやって」

 娘はうつむいたまま浩を見つめてしどろもどろ言う。

「この人、あたしに、だ、抱きついて・・」

 そのリアルな言い方に、優の顔にも一瞬で火が付いた。いきなり浩の頭をポカポカ殴りだした。

「てめえ、わたしの親友に何してくれたのよ」

 聞き耳を立てていた店主が飛び出して来た。

 店主は優を止めるどころか、いきなり浩の胸ぐらをつかみ上げ、猛烈な台風のような勢いで店から引きずり出した。

「おれの娘に痴漢しやがって。二度と来るなあ」

 と叫びながら、硬い歩道へ放りだした。

「な、何でえ?」

 倒れたまま、浩は店の戸口を振り返った。

 肩を怒らせて店へ戻る店主の背の向こうに、娘の訴えるような目を見た。その目からこぼれる涙が、店の明かりに光った。


 小雪の舞いだした暗がりを歩きながら、浩は叩かれた左頬に手を当てた。

「いや、待てよ・・このビンタには、覚えがあるぞ・・」

 と彼は口走っていた。

「ああ、そうだ、あの時、デパートの絵画展でも・・そして・・」

 彼の瞳は粉雪の遥か彼方に注がれた。







































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る