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 新樹荘は博多区にある築五十年を過ぎた二階建てのアパートだ。六畳一間の部屋が各階に四つずつある。トイレも炊事場も洗濯機も各階共同だ。風呂はない。格安の家賃だが、102号室と104号室は空家になっている。

 その203号の室内の壁には、たくさんの絵が立て掛けられていた。その中には、戦争で死にゆく瞬間の人々を描いた古い絵もいくつかあった。電球がそれらを赤裸々に照らしていた。手作りのイーゼルに載ったキャンバスには、薄汚れた下着姿の少女が描かれ、火の粉舞う中、拳を振り上げ、絵の中からその部屋の住人を睨みつけていた・・身も心も焼き焦がすような瞳で。

 その部屋の住人・・田口浩は、窓際で、どこからかひろってきたような壊れかけの椅子に座り、スケッチブックをめくっていた。

 紫色の暗い教室で、一人の生徒が皆に囲まれ、腕で首を絞められ、パンツを剥ぎ取られている絵。

 同じ教室で、その彼が髪を切られている絵。

 狭いあばら屋で、首にタバコの火を押し付けられている絵。

 同じ部屋で、絵を守ってうずくまる彼を、二人の少年が蹴っている絵。

 めくるごとに、異様に濃い極彩色が、見る者の胸を短剣のようにえぐる絵ばかりだ。

 充血した目で、濁った呻きをもらした時、お腹もさみしい鳴き声をあげた。

「ちくしょう」

 立ち上がって、壁に掛けたビニール袋をさわったが、何も入っていない。

 浩は部屋を出て、錆びを蹴散らし暗い階段を降りた。

 大通りを避け、植物の根が光と逆に伸びるように、裏道を暗い方へ潜っていった。

 十五分ほどさまよって、路地裏から通りへ出た時、小さな看板の明かりを目にした。

【梅屋うどん】

 吸い込まれるようにその店に入った。

 小さな店内のテーブルの一つに、三人の客がいた。

 店員は、五十歳くらいの真面目そうなうどん職人と、二十歳くらいの丸っこい女性だ。

 二百九十円のかけうどんを注文すると、とろろ昆布がのってきた。

 テーブルのネギをたっぷり入れ、唐辛子も多めに入れた。

 こしがあるのにつるつるしていて、こんなにおいしいうどんを食べるのは初めてだった。

「お客さん、大丈夫ですか?」

 ふいに呼びかけられて見上げると、丸顔の女性店員が目を丸くして見つめている。

「えっ?」

「食べながら、泣いていらっしゃるから」

「えっ? ああ、今日、何も食べてなかったし・・泣くほどおいしいけん」

 とつくろいながら、浩は自分の涙に気づいた感じだった。だけど涙は拭かなかった。

「うわあ、真さん、泣くほどおいしい、いただきましたあ」

 と、店員は店主に喜びの声を発した。

「優ちゃん、これ、サービスと言って、渡して」

 店主に渡された大きな海老天を、店員は浩のテーブルに持ってきた。

「ありがと、ございます」

 浩の声が嗚咽で震えた。

「あら、まだ泣いていらっしゃるとですね」

「おれ、泣かんと生きていけんから・・」

「はあ?」

 店員は首を傾げて見つめたが、三人の客が席を立ったので、レジへ向かった。

 空いたテーブルの後片付けをして、優ちゃんと呼ばれた店員は浩の近くへ戻った。

「まだ泣いていらっしゃる・・」

 もう心配そうな目ではない。むしろ興味深げな口調だ。

 浩はやけっぱちな言葉を吐いた。

「たくさん泣いたら、お腹がすいたけん、もっと泣くために、食べに来たとよ」

 店員はキョトンと青年を見つめたが、こらえきれず、しゃがみ込んで噴き出してしまった。

「泣かんと生きていけんから、でしょ?」

 笑いすぎのせいか、彼女も涙をもらしていた。


 その日から週に二三度、浩は梅屋うどんに通うようになった。











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