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昼前に博多区のファミレスのコック見習いのパートを終え、浩は天神目指して歩いた。
「十一月二十日、今日だ・・今日こそ、正太と夏実に会える・・」
息を吐くように独り言が口を出た。
相変わらず寝ぐせが目立ち、首に黒のスカーフを巻き、服も黒のジャージだ。
「もう一度、二人に会うために、おれはこの十年を生きてきた。正太が賞を取って、新聞に博多市在住と出たけん、会社を辞め、家を出て、博多に来たとよ。もう後戻りはできん。すべては、今日のため、今日こそ、おれの、失われた人生が始まるとよ・・」
歩みはしだいに速くなり、やがて走りに変わった。
街中に輝く天神のデパートがしだいに巨きくなり、天にそびえて浩を見下ろしてきた。その腹中に彼は飛び込んで行った。エスカレーターで上がり始めた時、奥のエレベーターが開くのが見えた。そしてそこに、浩と同じように首にスカーフを巻いた男が一瞬見えて視界から消えた。スカーフの色は黄だ。
なぜだか胸騒ぎがして、二階から下りのエスカレーターへ走り、一階へ駆け下りた。エレベータの近くを捜したが、黄色いスカーフの男など見当たらない。
エレベーターで七階へ直行した。
野崎正太絵画展の受付には、胸に【北野秀雄】の名札を付けた、三十半ばの男が座っていた。大柄で、彫りの深い顔立ちの美男だ。
前回と同じように浩は受付ノートに記入し、自己紹介をして、正太に会いたいと申し出た。
「野崎画伯なら、つい先ほど、帰られましたよ」
男の言葉がハンマーのように浩の頭を殴った。
「もしかして、正太は、首に黄色のスカーフを巻いていませんでしたか?」
「ええ、ええ、確かに巻いていました・・」
男はまだ何かしゃべっていたが、浩は脱兎のごとく駆けだしていた。そして展示会場を出て、曲がったところで誰かにぶつかってしまった。
「ああっ」
と二人の叫びが交錯した。
相手は尻もちをつき、浩はその上に倒れ込んでいた。気がつくと、柔らかな胸間に浩の顔はめり込んでいた。空色が眼前で震えた。怒涛の鼓動の匂いが胸を突いた。浩が顔をあげた瞬間、女性のかん高い悲鳴とともに、左頬に熱い衝撃が弾けた。その烈しさに黒のスカーフがほどけて垂れた。叩かれてたぎる頬を手のひらで押さえ、浩は立ちあがりながら釈明した。
「ごめんなさい。すごく急いでるけん、許してください」
涙目で、相手の顔がほとんど見えない。
頭を下げて、エレベーターへと走った。涙をぬぐい、下りの表示を見た浩は、奥の非常階段を飛び降りるように駆け下りた。
「十年だぞ。この日を、十年待ち続けたんだ。何もかも捨てて、ここへ来たんだ」
叫び声をもらしながら、一階へ降り、店内を走り回った。
出入り口から通りへ出て、人込みを擦り抜けながら目を凝らした。
首にスカーフを巻いた人がちらりと見えたので、必死に追いかけた。だけど近づくと、そのスカーフは緑色だったし、見知らぬ女性だった。
「しょうたあ、しょうたあ・・」
狂った叫び声でさまよう若者を、道行く人々が妖怪を見る目で振り返った。
七階の展示場の受付では、北野秀雄が二十歳くらいの娘に話しかけていた。
「夏実ちゃん、ほっぺがリンゴみたいに赤いね。どうしたの?」
夏実ちゃんと呼ばれた娘は、秀雄の言う通り、輝く色白のふくよかな頬を熱く染めていた。短めの栗色の巻き髪の下の、とび色の大きな瞳が愛くるしい娘だ。ライトブルーのワンピースが似合っている。
娘がぼおっとしたまま答えないので、秀雄は細い肩を叩いて、もう一度呼びかけた。
「なつみちゃん?」
「えっ?」
「ほっぺがすごく赤いよ。誰かに叩かれたの?」
夏実はビクッと目を見開て首を振った。
「まさかあ、あたし、誰も叩いてませんよお」
「えっ? 違うよ。夏実ちゃんが、誰かに叩かれたの、って聞いたんだよ」
「えっ? ありえん、ありえん」
「どうしたの? 夏実ちゃん、おかしいな」
「さっき、人にぶつかったんです。その時、首のスカーフがめくれて、お兄ちゃんと同じように、ヤケドの跡が・・」
秀雄の眼圧が濃くなった。
「それって、男の人かな?」
「えっ? 何で?」
「そのほっぺ、恋の色に見えるから」
男の指が娘の燃える頬にふれた。
夏実の声が怒りに震えた。
「ばかあ、そんなはずなかです。あいつは・・かたきみたいなやつやけん」
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