第76話――契約


なんで、俺に相談してくれなかったんだ!」


 九十九つくもが悲痛な表情で、夫人の両肩を掴んだ。

 

「誰かに話すと、主人と娘の命は保証できないって言われて! 警察の捜査が及ばないように、部屋を跡形もなく綺麗に片づけろと……」


 夫人は震えた声を絞り出した。

 

「今、二人はどこに!?」


「わ……わからないんです。手術が終わったら連絡すると……」


「なぜ、奥さんだけが残されたんです!?」


 九十九の両手に更に力が加わった。


「やめて!」


 突然、夫人は彼の両手を強く振り払った。


「これ以上は何も聞かないで! 二人の身に何かあったら……」


 再び嗚咽おえつした声を漏らすと、九十九はそれらを全て受け止めるように、また両肩を掴み直した。


「奥さん! 二人は俺が必ず探し出す! だから!」


「おい。ちょっと、あんた。さっきから何してんだよ。その人嫌がってんじゃねぇかよ」


 背後から聞こえた声に、九十九は振り返った。


 さっき夫人とぶつかりそうになったサラリーマンの一人だろうか。


 三十代くらいのその男は、酒で酔っているせいか顔が赤くなっていた。

 さらにその後ろから、仲間と思える白いワイシャツ姿のサラリーマンが数人近寄ってきた。

 

「いい年こいて、ナンパとかしてんじゃねぇよ」


 そう言いながら九十九の右腕を掴んだ。

 次の瞬間だった。

 

 九十九はその腕を掴み返した。

 またたく間に、男は強制的に地面にひざまずかされた。

 

「外野は黙ってろ」


 すると、突然、松村夫人がその場から逃げるように向こうへ駈け出した。

 

「ちょっと……! 奥さん! 松村まつむらさん! 待ってください!」


 九十九が男の腕を咄嗟に離し、彼女を追いかけようとした。

 

「この野郎!」


 ひざまずかされた男が立ち上がって、九十九の背後から体当たりしてきた。

 不意をつかれて、彼は前のめりに倒れた。

 九十九は、男を振り払おうとした。

 そのひじが男のほほに当たった。

 男は声を上げながら、後ろにった。


 今度は、後ろにいた数人の同僚達が九十九の体を抑えつけた。

 彼は、走り去って行く夫人の背中に向かって必死に叫び声を上げた。


「松村さん! あいつはどこにいるんです! 松村さん!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る