第74話――一本の電話


 一瞬、安堵あんどしたが、すぐに九十九つくもは女性を追いかけ始めた。

 

松村まつむらさん!」


 間違いない。

 周りを全く気に留めずに、大声で呼びかけた。

 

「松村さん! 待ってください!」


 明らかに声は届いているはずだ。


 なのに何故、自分から逃げるのか?

 全く意味がわからなかった。

 

 彼女が生きているということは、松村あいつも生きているということなのだろうか?

 そして、彼らの娘も――

 

 九十九はパニックになるのを必死にこらえながら、彼女を追い続けた。

 

「松村さん!」


 飲み屋などが軒並ぶ細い路地に入っていき、見失いそうになった。

 女性は走りながら時折、振り返った。


 目が合った。

 その次の瞬間だった。

 

 前を歩いていたサラリーマンのグループにぶつかりそうになり、彼女は路上に転倒した。

 

「……だ、大丈夫ですか?」


 グループの一人が手を差し伸べると、彼女はそれを無視するかのように起き上がり、また向こうへ走り出そうとした。

 

 そのおかげで差は縮まった。


 追いついて彼女の腕を掴んだ。

 

「松村さん!」


 すぐさま夫人は、九十九の手を振り払った。

 彼は、彼女の両肩を掴んだ。

 

「奥さん……! なぜ逃げるんです! あいつは? 松村は? 今どこに!」


 夫人はようやく観念したかのように抵抗を止め、諦めるようにその場に立ち止まった。

 

「……」


 九十九から目をらし、おびえた表情で黙り込んだままだ。

 

「なぜ、逃げたんですか!」


 ソワソワしていて、周りをちらちら見ながら彼女は落ち着かない様子だった。

 それを見て、九十九は問いかけた。

 

「まさか……誰かに追われているんですか?」


「な……何も話せないんです」


 彼女が初めて口を開いた。

 

「……ど、どうして?」


 間髪入れず聞き返すと、

 

「話すと、家族が……」


 彼女はそこで口を閉ざした。


松村あいつと娘さんは生きてるんですか!?」


 すると夫人は震えながら、わずかにうなずいた。

 九十九は目を見開きながら、尚も問いかけた。

 

「今どこに!?」


「……」


「誰に脅迫されているんです!?」


「……」


「松村さん!」


「数か月前に!」


 彼の呼びかけを呑み込むように、突然、夫人は大声を発した。

 九十九は咄嗟に言葉を止めた。

 

 彼女は声を落として言った。

 

「……数ヵ月前に……急に娘の体調が悪くなって、病院に連れて行ったんです。そしたら……」


 すると、いきなり彼女は嗚咽おえつし始めた。


「うぅ……まさか、まだ……二歳になったばかりなのに……あの子……半年しか生きられないって……!」


 九十九は初めて聞かされる真実にただ茫然としたままだ。


「……主人も私も……もう、どうしていいかわからなくて……」


 夫人の顔がくしゃくしゃになり、両目から涙があふれ出てきた。

 

「そんな……あいつ、なんで黙ってたんだ。……そんな素振り、少しも……」


 その先の言葉が出て来ない。

 

 むせび泣きながら夫人はその場に座り込んだ。

 気持を必死に持ち直すように、呼吸を整えると、彼女は涙をこらえるように口を開いた。

 

「……一か月経った時のことでした。……家に一本の電話がかかってきたんです。男の人から。どこでどう知ったのか、何故かその人、娘の病気のことを知っていたんです」


 言いづらそうにを置くと、震えながら言葉を絞り出した。

 

「『』と……」


 鼻をすすり唾を呑み込むと、気持ちを落ち着かせるように彼女は声を落とした。

 

「……でもその時は……気味が悪くて電話をすぐに切ったんです。でも、主人が帰ってきて、そのことを話したら……」


 夫人はまたこらえきれずむせび始めた。

 

「『なんで切ったんだ!』と怒り出して。履歴からその番号に掛け直したんです。そしたら、その男性が出て……」

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