第44話――旧知


 早紀さきの父親の仕事は転勤が多かった。

 中学時代は東京で過ごした。

 小学時代も少しだけ。


 早紀は、その時の同級生であったある男の子の名前を思い出していた。

 彼の名前は、由良一之ゆらかずゆきといった。


 小学六年の時、クラスが同じでよく話をしていた。

 他の子達は、由良がだとよく知っていて近寄りもしなかった。


 その学年時に、早紀は父親の転勤で京都から東京に引っ越して来た。

 だから、由良が過去にどんなことをしたのかも知らなかった。

 クラスの子づてで、彼の噂を聞いてはいたが―― 


 彼が四年生の時だった。

 

 クラスの男の子達と四人で、近所の神社に肝試きもだめしに行った時のことだった。

 その神社の境内に、ある大木があり、夜中になると「女の顔」が浮かび上がるという噂が流れていた。

 

 気の弱い由良ゆら少年は、クラスの山本やまもとという太ったガキ大将に面白半分で強制的に連れられて行った。

 ガキ大将は、由良が普段からのことを口にし、変わった子だとわかっててえて揶揄からかうつもりで連れて来たのだ。

 

「由良。顔が浮かび上がったら、このスプレーで化粧してやれ」


 ガキ大将はペイント用のエアゾール缶を、由良の手に握らせて言った。


「……そ、それは……やめた方が……」


「何ビビってんだよ! お前! 霊能力者なんだろ!」


 ガキ大将の山本は、怖がる由良少年を見て面白がるように乾いた笑い声を上げた。

 

 その時間が来た。

 月明かりが大木を照らし、その光と影で何かが浮かび上がった。

 

「……! うわぁぁ……!」


 その場にいた子供全員が声を上げ、由良とガキ大将以外の二人は、驚いて神社の鳥居の方へ逃げて行った。


 本当に、それは人の顔だった。

 女性の。


 目が吊り上がり、唇は薄く、こちらを斜めに見下ろしていた。

 まるで顔半分が木の中に埋もれ、もう半分だけ浮き上がっているかのようだった。

 

 ガキ大将はおののきそうな気持を必死に抑え込みながら言った。

 

「由良……! 今だ! やれ!」


「いや……本当に、やめた方がいいよ!」


「チッ! ビビりが! 貸せ!」


 ガキ大将は由良の手からスプレー缶を引ったくり、木に浮かび上がったその顔に向けた。

 

「山本君! これはマズイって!」


 由良は背後から彼の両腕を掴んで、止めようとした。

 

「うっせぇ! この嘘つき野郎が!」


 叫びながら、ガキ大将は由良の顔に肘打ちを食らわせた。

 思わず由良はその場にうずくまった。

 鼻を押さえると、血が出ていた。

 

「化けもんが! これでも食らえ!」


 山本少年は半分だけ浮き上がったその顔を完全に塗り潰すように、またたく間にスプレーで赤色に染め上げた。

 

「へっ! ……ほら、何も起こらねぇって……! 幽霊なんているわけねぇんだよ! このホラ吹きが!」


 由良ゆらは鼻血を両手で押さえながら、おびえた両目をガキ大将に向けた。

 

 彼の持っているスプレー缶が、土の上に落ちた。

 

「……はぁ……はぁ……」


 突然、息が苦しくなったように、山本少年は両手で胸を押さえ、ふらつき始めた。

 

 次の瞬間、膝から崩れ、うつ伏せに倒れた。

 

「……! 山本君!」


 咄嗟に抱き起こすと、彼は白目を剥き、その太い体を激しく痙攣けいれんさせていた。

 

 彼の口から泡が噴き始めた。

 

「……まずい……」


 鼻血が出ているのも気に留めず、自分の左手につけていたを、山本少年の左手首につけ替えた。

 

 そして、彼の着ていた緑色のティーシャツを上にまくり上げた。

 贅肉ぜいにくつきのよい山本少年の上半身があらわになった。

 

 由良は自分のポケットに入れていた黒マジックを取り出し、山本の胸に何かを書き始めた。

 

 縦書きに梵字ぼんじのような文字が黒でなぞられていく――

 

 へその下辺りまで文字を書き終えると、由良はしゃがみ込み彼に向かって両手を合わせ、お経を唱え始めた。

 

「のーまく さんまんだーばーざらだん せんだーまーかろしゃーだー――」


 山本の痙攣けいれんが激しくなった。

 それに沿うかのごとく、お経の声も大きくなっていく――

 

 震えがピタリと止まった。


 全身の力が抜けたように、ガキ大将は仰向けのままぐったりとした。

 

 目は閉じたままだった。

 彼は動かなくなった。


「おい! どうしたんだ……! ……何これ……」


 鳥居の方に逃げていた三村みむら少年が心配して戻って来た。

 

「やめろ! 何してんだ! この野郎!」


 咄嗟に由良の両肩を掴み、山本から引き離した。

 由良は後方に仰け反って倒れた。

 

「……はっ!」


 見ると、ガキ大将が目を開けていた。

 彼はゆっくり上半身を起こした。

 ふと、めくれ上がった自分の上半身に書かれた文字に気づいた。

 

「ひっ……!」


 ガキ大将の顔が引きった。

 思わず両手でそれをき消そうとするかのように、必死に胸の辺りをさすった。

 左手にかけられた黒輪に気づき慌ててそれを外すや否や、怯えながら思い切り遠くへほおり投げた。

 

 三村少年が慌ててガキ大将を抱き起こした。


「行こ! こ……こいつ、本当におかしいよ!」


 そう言って怯える山本少年の手を引っ張りながら、まるで化け物を見るかのような目つきで由良を一瞥いちべつすると、その場から走り去って行った。


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