第43話――赤いリボン


 ちょうど三年ほど前に村上加絵むらかみかえは、由良ゆらに調査を依頼をしていた。


 いや、厳密に言うと、当時のが。


 由良の頭の中で、その時の記憶がスーッと甦ってきた―――



 当時、村上加絵は高校三年生で長野の松本に住んでいた。

 その六月。

 突然、彼女は学校を休むようになった。

 

 加絵の担任であった谷口早紀たにぐちさきは心配し、様子を伺いに彼女の自宅を尋ねた。

 

 教師になってから五年目だった。もう新米教師ではなかったが、担任を請け負うのはまだ四回目で、あまり不登校のケースには慣れていなかった。

 

 玄関の引き戸を開けると、突然、加絵かえの母親らしき四十代くらいの女性が飛び出してきた。

 

 彼女の顔はあざだらけで、赤くれ上がっていた。

 

「ど……! どうされたんですか!?」


 早紀は思わず声を上げた。

 

「うぅ……」


 すると加絵の母親は早紀にしがみつきながら、その場で嗚咽おえつし始めた。


 早紀は母親とともに、そーっと音を立てないように玄関の敷居をまたいだ。

 靴を脱ぎ、家の中に足を踏み入れた。

 息を潜めながら短い廊下を、足音を立てずにゆっくりと歩いて行く。


 早紀が振り返ると、母親は強張った表情で人差し指を右方向へ差した。

 前に向き直った早紀は、右前方にあった半開きになっているりガラスのついたサッシドアの方へ息を殺しながら近づいた。

 

 声が中から聞こえてきた。

 

「取れない……取れない……」


 そーっと中に顔を覗かせた。

 そこは風呂場で、右に浴槽があった。


 その中に、女性が背を丸めて座り込んでいた。

 

 上下紺色のスウェットを着て、背後からでは顔は見えない。

 少し茶色がかった長い髪をまばらに広げ、その後頭部には、場違いとも思えるがつけられていた。


 見ると、その左手にはアルミたわしがあり、その手で浴槽を擦っていた。

 

「取れない取れない取れない取れない……」


 ずっと同じ言葉を繰り返しながら、ただひたすら浴槽の壁を力いっぱい磨いていた。

 浴槽の表皮は剥がれ落ち、槽の半分上と下は、明らかに違う色に変わっていた。

 首を少し伸ばして覗くと、槽の底にその削れたくずがたまっているのがわかった。

 

 ふと、早紀は向かいの鏡に自分の顔が映っていることに気づいた。

 その瞬間、がこちらを振り返った。

 

 早紀は声が出なかった。

 

 顔は病人のように青白く、目が充血し、頬はこけて、とてもあの明るく活発で溌剌はつらつとした村上加絵むらかみかえとは別人だった。

 

「入んなって言っただろうが!」


 反射的に早紀は頭を伏せた。

 蓋の開いたカビ除去剤のボトルが、こちら目がけて飛んできた。


 頭上を通り抜けると、後方でガラスが割れる音が響いた。

 ボトルの中の液体が飛び散って、塩素の臭いが部屋中に充満した。

 

 早紀は床に手をついて、目を大きく開いたままだ。

 震えながら伏せた頭をゆっくりと上げた。

 

「取れない取れない取れない取れない……ああ! もうっ! イラつく!」


 彼女は片足で底を踏みつけた後、再び何かに憑りつかれたように壁を一生懸命に削り始めた。

 

 塩素でただれ、白くふやけきった加絵の両手を見て、早紀は直感的に思った。

 

 もしかしたら……これは……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る