第38話――直感


 時計の針は、夕方七時を差そうとしていた。


 出払って他に誰もいなくなった刑事部で、九十九つくも松村まつむらのデスクにあった写真立てを手に取って眺めていた。

 中央に映った彼の娘が、幼かった頃の春花はるかの姿と重ねて見えた。


 ドアが開き、高倉たかくら刑事が入ってきた。

 電話での会話の続きをしようと、彼女は慌てた様子でメモを取り出して、それを読み上げた。


「遅れてすいません! ええっと……石原高次いしはらたかつぐ教授。六十四歳。現在は、帝日大学で教鞭をとっています。明日は午前から授業が入っています。講義が終わった後、聞きこみに――」


「高倉」


 会話の途中で、九十九が呼び掛けた。

 

「……はい?」


 意表を突かれたように、彼女は顔を上げた。

 九十九はゆっくりと振り返り、落ち着いた口調で言った。


「このヤマからお前は、外れろ」


「え……? な……急に……どうしたんですか?」


 何度も目をしばたたかせ、もう一度問い返す。

 動揺している彼女とは対照的に、何かを悟ったような冷静な表情で九十九はさとすように語り始めた。

 

「俺はこの仕事に就いてもう三十年近い。だから、わかるんだよ」


 まだ意図を呑み込めず、彼女は少し引きった笑みを浮かべた。


「……わかるって。一体、何の事です?」


 九十九は話を続けた。

 

「こういう職業だ。いつ、自分の身に何が起こるかわからない。でもな。長年やっていると、そのタイミングが肌で感じ取れるようになる。て奴だ」


 高倉は茫然としたまま、話を聞き続けた。


「だから万全の注意を払い、最悪の事態に備えていた」


 すると九十九は視線を逸らし、手に持っていた書類を机の上に放り投げた。

 高倉はそちらに視線をった。

 その写真に写った光景を見て、思わず目をいた。

 

 台の上にどす黒い血だまりがあり、その中に浮かぶように人の大腿部だいたいぶだけが写っている。


 九十九は表情を変えずに言った。

 

「でも、これは違う。セオリーや経験。そういう次元の話じゃない。、突然、


 高倉は言葉を返せず、唾を呑み込んだ。


「先が全く読めないんだ」


 そう言って顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「お前を守ってやれる保証はない」


 しばらくまじろぐと、高倉は我に返ったように声を上げた。


「でも……! そんな事言ったら、九十九さんも――」


 すると彼女の反論を無視するように、彼は出口の方に歩き出した。

 高倉は慌ててその後を追い、その背中に向かって勇気を振り絞るように言葉を投げかけた。


「……私が……若造だからですか?」


 思わず九十九は立ち止まった。

 彼女は尚も言った。


「まだまだ半人前だから……?」


 九十九の脳裏に一瞬だけ、娘の姿が思い浮かんだ。

 彼はその印象を振り切るように、そのままドアを開けて外に出て行った。

 

「ちょ……! ちょっと待ってください!」


 高倉は納得できない様子で、後ろから追いかけた。

 九十九は署の駐車場まで下りていき、車に乗り込んだ。

 必死に後を追って来た高倉は、運転席のガラスを叩きながら中にいる彼に呼び掛けた。

 

「九十九さん! ……九十九さん!」


 彼はそちらを見向きもせず、エンジンをかけた。

 サイドブレーキを解除し、ギアをドライブに切り替えて発進しようとしたその時だった。

 

 高倉が進路を塞ぐように、車の前に立って両手を上げた。


「……!」


 慌ててブレーキを踏んで、車を止めた。

 思わずクラクションを鳴らした。

 ヘッドライトを眩しがるように、高倉は目を細めて立ったままだ。


 咄嗟にパワーウインドウを下げ、前方の彼女に向かってドスの利いた怒声を張り上げた。


「馬鹿野郎! 死にたいのか!」

 

 またクラクションを数回鳴らした。

 高倉は依然としてそこから動こうとしない。

 

「……ったく! 何なんだよ!」


 九十九は舌打ちすると、ギアをPに戻し、サイドブレーキを踏みしめた。

 ドアを開け、車を降りた。


「おい! どけ!」


 面倒臭そうに怒鳴ると近づいて行き、彼女の腕を掴んでその場から退かせようとした。


「ガキみたいな真似してんじゃねぇよ!」


 すると、その手を振り払って高倉が叫び声を上げた。


「子供扱いしないでください!」


 毅然きぜんとしたその態度に、九十九は思わず言葉を呑んだ。

 小柄な彼女が、大柄な彼に向かってさらに畳み掛けるように声を張り上げた。


「九十九さんの身に何かあったら、責められるのは私なんです!」


 その高い声を即座に呑み込むように、野太い声色で彼は言い返した。

 

「だから外れろって言ってんだよ! 新人のお前がそこまで背負わなくていいんだよ!」


 高倉は一瞬ひるみそうになったが、声を震わせながら反論した。


「じゃあ、代わりに他の誰かが!? その人の身に何かあったら……!? 私は刑事ですよ! そんなの耐えられません!」


 悲痛にも似た彼女の叫び声が、地下の駐車場に響き渡った。

 言い返すことができず、九十九は黙り込んだ。


 苛立ちを必死にこらえるように、辺りに視線を泳がせた。

 気持を落ち着かせるように深く溜息をつくと、彼は目を瞑った。


 高倉の表情は尚も強張ったままだ。


 息を吸い込みながら、九十九は目を開けた。

 真っ直ぐに視線が合うと、高倉はまた身構えた。

 

 九十九は言った。


「……一つだけ条件がある。乗れ」


 あごを車の方に突き出すと、彼はドアを開けた。


 運転席に座った九十九を見て高倉は我に返り、慌てて助手席のドアを開け、自分も車に乗り込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る