第29話――異変


 九十九つくもいらついていた。


 出勤時間から、もう三十分も越えている。

 電話を五回以上かけたが、留守番電話のままだった。


(まさか……)


 由良ゆらの言った通り、松村まつむらの身に何かあったのではないかと、さっきから椅子に座り、立ち上がって彷徨うろついては、また座るを繰り返している。

 

 こらえ切れず、九十九は上司に向かって、

 

部長ぶちょう! 松村にいくら電話をかけても繋がりません。もしかして、あいつの身に何かあったのかもしれません。自宅に様子を見に行ってきます!」


 そのまま行こうとすると、

 

「わかった。ただ、一人で行かせるわけには行かん。おい! 新人!」


 部長は九十九の肩越しに大きな声で呼び掛けた。

 

「はい!」


 椅子から飛び上がるように、若い女性が立ち上がった。

 彼女に向かって部長は言った。

 

「こいつと一緒について行って来い」


 あごで九十九の方を差しながら言った。


「わかりました!」


 威勢の良すぎる返事をすると、その新人刑事は緊張した顔つきで九十九の方を向いた。

 

 上下黒のスーツ姿で、化粧気がない。

 女性にしては短く感じるショートヘアで背筋のピンと張った、いかにも体育会系といった感じだ。


「えぇ……」


 九十九は面倒臭さを隠し切れず、助けを求めるように部長の方を向いた。

 そんな彼の表情をあえて無視するかのように、部長はまた顎を突き出して一緒に行くように促した。

 

 渋い顔つきで、九十九はその新人刑事の方を向いた。

 すると目が合うや否や、

 

高倉真矢たかくらまやといいます! よろしくお願いします!」


 まだ名前を覚えられてないと、思い込んでいるのか。

 全身全力で頭を下げてきて、九十九は思わず仰け反ってしまった。


「お……おう……」



 高倉たかくら刑事は、八月末に刑事部に配属されたばかりの二十三歳の新人だ。

 実直な性格で正義感が強く、二年間の派出所勤務の後、その優秀な功績を評価され、本人の希望と地域課の推薦により配属されたばかりだった。

 ただ男性主義がまだ根強く残っているせいか、この一週間ほどは任される仕事といえば書類整理と連絡係程度のものだった。

 

 高倉は深く下げた頭を上げた。

 見ると、九十九はもう歩き出していた。

 彼女は慌てて、小走りに彼の後を追った。


 署を出て、駐車場に停めてあった黒の覆面パトカーに二人は乗り込んだ。

 九十九が躊躇ためらいもせずサイレンを上に載せ音を鳴らすと、高倉の表情が強張った。

 彼は視線を前に向けたまま、助手席に座っている彼女に警戒を促した。

 

「……気をつけろよ。なんか様子が変だ」


「はい!」


 真横で発せられたその大きな声に、九十九はまた思わず体をビクつかせた。


 

 松村まつむらのマンション前に着いた。

 二人は急いで車から下りた。


 玄関ホールに入ると、九十九がエレベーターのボタンを押した。

 松村が住んでいる階は五階だった。

 

「無事でいてくれよ……」


 そわそわしながらエレベーターを待った。

 すると、四階で止まった。

 業者でも入っているのだろうか。

 ガタゴトッと搬入しているような音が響き、なかなか下りてこない。

 

「……クソッ! 何してんだよ!」


 八つ当たりするように、ボタンを握り拳で叩いた。

 

「ちっ! 階段だ! おい!」


 九十九は高倉の返事を待たずに、非常口に向かった。

 

「……はい!」


 高倉は必死でその後を追って、階段を駆け上がった。


 五階まで辿り着いた。


 二人とも息が荒くなりながら、松村が住んでいる五〇八号室の前まで来た。

 九十九は迷わずインターホンを押した。


 応答はない。


 今度は二回続けて押した。

 それでも返事はなかった。

 

 ドアを二回ノックをした。

 

「松村!」


 九十九は声を張り上げた。


 反応は同じだった。


 傍にいる高倉の表情は強張ったままだ。

 彼はドアノブに手をかけた。

 

「おい松村! いるんだ……!」


 鍵は開いていた。


 九十九の表情がさらに険しくなった。

 咄嗟に後ろにいた高倉に目配せをした。

 彼女は相槌あいづちを打ち、九十九の仕草に習うように拳銃のホルダーに手を添えた。

 

 呼吸を整え、九十九はゆっくりとドアを開けた。

 

「……なんだ……これ……」


 目に飛び込んできた光景は、不可解極まりないものだった。

  

 カーテンのかかってない部屋の窓から眩しい朝日が差し込み、何も置いてないフローリングを照らしていた。

 

 家具一つなかった。

 

「……どうなっているんだ……」


 慌てて靴を脱ぐと、九十九は部屋の奥まで走っていき、ベランダに出るドアを乱暴に開けて、外を確かめた。

 

 エアコンの室外機が見えるだけだ。

 

 中に戻り、仕切りを越えて隣の部屋に入った。

 押入れが目に入り、白い襖戸ふすまどを激しい音を立てて開けた。

 

 布団一枚もなかった。

 

 九十九は狐に包まれたような感覚に襲われた。

 

(……昨日、自分はここに電話をかけたはずだ……)


 慌てるように携帯を取り出し、履歴を見た。

 

『松村宅 21:10』


 その履歴を押して、携帯を耳につけた。


 少しの後、電話がつながった。

 

『おかけになった電話番号は、お客様のご都合により、現在ご利用いただけません』


 感情の込もってないアナウンスが、耳奥に響いた。


 思わず画面を見つめ返し、もう一度通話ボタンを押した。

 

 再び同じアナウンスが流れるだけだった。

 

 携帯を耳につけたまま彼は呆然と呟いた。

 

「……何なんだ……これは……」


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