第2話 学舎のおもかげ

 犯罪を犯した者は最後には暗渠街あんきょがいに流れ着くと言われている。


 そんな場所を帝国が放置している理由はひとつ。

 手など出したくない人物たちが複数陣取り、無法地帯なりに本物の国のように纏まっているせいだ。

 大陸一の規模を誇る帝国といえども聖地と定めて首都を置いたお膝元で『国もどき』と化け物じみた逸脱者相手に戦争などしたくない、故に牽制しつつ見て見ぬふりを続けている、ということである。


 すべての発端は柚良ゆらが生まれる前に始まったことであり、物心ついた頃には今のような関係が確立していた。


 だが暗渠街へ逃げ込めば安全、というわけでは決してない。

 むしろ表の世界でぬくぬくと育ち、たまたま犯罪者になっただけの者なら格好の餌になる。なにせなんの後ろ盾もないのだから。


 柚良もその一端に足を踏み入れていた。

 簡単に言うと暗渠街で一晩の間に財布をスられ、靴底に隠しておいた金もカツアゲされ、ついでに女とわかるや否や売り払われそうになって魔法を使うはめになった。


 魔法の腕に関しては柚良は天才的だ。

 しかし魔力の回復は魔導師のコンディションに左右される。

 つまり有金を全てをなくし、満足に食事もできず、休む場所もなく疲労だけが嵩んでいる柚良は魔法を連発できないわけだ。


 次は逃げられないかもしれない。

 そう焦っている間に愛用している杖まで盗まれてしまった。


 魔導師が使う杖は魔力安定の目的で作られたものと、自分の体内にある魔力ではなく自然の魔力を利用する際のアンテナ代わりに作られたものがある。

 柚良の杖は両方の機能を備えた優良品で、いざとなったらじゃじゃ馬な自然の魔力を利用するしかない、と思っていた柚良の選択肢をまたひとつ奪うものだった。


 そんなこんなで。

 魔導師の才能に溢れた十七歳の少女が暗渠街で野垂れ死に一歩手前まで追い詰められるのに、一週間もかからなかった。


(お腹減りすぎてもう麻痺しちゃっ……いや、胃が痛いけどこれ空腹感? ……浄化魔法が使えれば残飯でもなんでも漁るんだけれどなぁ)


 裏路地の物陰に座り込んだ柚良は壁に頭を預けて天を仰ぐ。

 雑然とした配管や謎のコード群でまともに空が見えないが曇っているようだ。


 浄化魔法は人体に悪影響を及ぼすものを取り除いたり解毒したりすることができる優れもの。しかしもちろん魔力が要る。今の柚良にはそんな余力はない。

 だが浄化せずにゴミ箱や地面に散らばる残飯を食べればたちまち腹を下し衰弱死するだろう。

 それをわかっていても食べなくては生きられない者もいるが、つい先日まで帝国内では高水準の生活圏で暮らしていた柚良には少々難しい――というよりも。


(前に採取で足を運んだ隣国の密林でうっかり生水をそのまま飲んで凄いことになったし、別の国の森で調査のために猿の食べ残しを食べたらこれも凄いことになったし、今あんなことになったら即死ものだぁ……)


 自分の経験に基づく忌避感からである。


 現地の人は平気な顔して食べてたのに、と愚痴を口にする力もなく、柚良はほんの少しの間だけと自分に言い聞かせながら瞼を閉じた。

 このまま寝てしまえば恐らく死ぬ。

 だから少しの間だけ。ちょっとだけ休憩だ、と。

 しかし瞼の裏に揺蕩う赤黒い闇は柚良の脳を優しく包み、彼女を眠りへと誘う。


 嫌な臭い。

 大通りの騒めき。

 時折漂ってくる不作法な魔力の残滓。

 人々の暴力的な気配。


「あれ」


 それらを香木のような良い香りが邪魔した。

 同時に頭上から降ってきた短い声。

 その声で、柚良の閉じた目の裏に懐かしい学舎が広がる。


 驚きながら思わず目を開けると、そこは相変わらず薄汚い路地だった。

 しかし目の前には着物とも洋服ともつかない服装の青年が立っている。


 部分的に切り揃えられた短い黒髪。

 左右に分けられた前髪の向こうには緑色をした狐や猫のような目。

 そして耳には特徴的な大きな耳飾り。

 すべての爪には黒いマニキュアが塗られており、肩の出た黒い服と腕に掛けた群青色の単物のせいか妙に色気がある。


 だが柚良には一瞬異なる服装に見えた。

 ごくごく普通の学生服に。


「帝国お騒がせの『皇族殺し』じゃないか。ここに逃げ込んでるんじゃないかと思ってたけれど、ビンゴだったね――糀寺こうじ柚良さん」

「……蒼蓉ツァンロンくん?」


 蒼蓉。

 トウゲン地区出身のクラスメイト。


 大人しい印象の優等生といえば真っ先に彼を思い浮かべる、そんな生徒だった。

 しかし柚良は彼と個人的な会話をしたことはない。蒼蓉と聞いて浮かんでくる印象も先ほどのもので全部である。

 ただ、教室にいる時にたびたび耳にしていた声が柚良を現実に引き戻す途中で学舎での思い出を見せたのだ。


(でも……これが本当に蒼蓉くん……?)


 柚良の知っている蒼蓉の印象をことごとく裏切る容貌、そして大人しさなどこれっぽちも感じない自信満々で――ほんの少し、なぜか高揚した声音に違和感を感じる。

 他人の空似ではないか。

 ついそう思ってしまったが、しかし彼は柚良の名前を呼んだのである。


「……!」


 はっとした柚良は立ち上がろうと壁に手をつけた。

 糀寺柚良だと認識しているということは、指名手配されていることもその理由も知っているはず。

 暗渠街でも指名手配犯を捕まえて表の役人に突き出し小銭稼ぎをしている者がいると聞く。もしその手合いだったなら逃げなくては。


 そう焦るも膝が震えて立ち上がれない。

 恐怖によるものではなく栄養失調が原因だ。

 立つどころかふらりと倒れそうになった柚良を蒼蓉が抱え、そしてひょいと横抱きにすると悠々と歩き始める。


「っま、待って! 待ってください! 信じてもらえないかもしれないけれど、あれは濡れ衣なんです!」

「ああ、まあそういうのはどっちでもいいよ」

「絶対に自分で真犯人を突き止めてみせます! だからっ……」

「どっちみち君はもう堕ちてしまった。だからウチで匿ってあげよう」


 下ろしてもらおうと暴れていた柚良は一瞬静止したのち、目を丸くして蒼蓉を見上げた。

 蒼蓉はまったく善人らしくない表情で笑みを浮かべて言葉を継ぐ。


「ボクから見ても見事な堕ちっぷりだ。いやあ、まさかあれだけ綺麗な世界に生きていた君がこうなってくれるとは思わなかった」

「ど、どういうことです?」

「話す時間は作るから安心してくれ、でもその前に……」


 蒼蓉は歩きながら肩を竦めた。


「大分酷い格好だし清潔感もゼロだしついでに餓死寸前に見える」

「うっ……」

「暴れる元気はあるようだけど、それもなけなしの元気だろう? 喋ってる途中で餓死されちゃかなわない。今はまぁ、大人しくボクに運ばれてくれないか」

「でも自分で歩けま……」

「いいから」


 蒼蓉は威圧するような目で見下ろして言う。

 その目に光がまったくないように見えるのは角度の問題だろうか。しかし柚良は教室にいる頃から時折この目を見かけた気もした。


 けれど、と柚良はその目から逃れるように視線を落とす。

 けれど――威圧的な目と言葉とは裏腹に、衰弱した体を抱く腕は妙に優しかった。

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